葬式と出棺

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 葬式は通夜の翌日営まれ、僧侶の読経の後、一〇時過ぎから一一時頃には出棺となる。棺は近親者や手伝いの若い者が持って窓や縁側から出した。出棺によって玄関など常時使用の出入口がケガレることを忌みきらったためだといわれる。棺は、木の枠に紙細工した駕籠(かご)に納めて担ぐか、あるいは晒で襷(たすき)がけにした棺を担ぎ棒を通して担いだ。鶴野では石崎の火葬場まで距離があるので、駕籠を馬車に乗せて運んだという。なお地域の有力者の葬儀には駕籠に代えて棺を輿(こし)に納め四人がかりで担いだ。
 野辺送りの葬列は宗派や葬家の社会的地位、葬儀の規模によって異なるが、おおよそ次のようであったという。高張提灯を先頭に寺の幟を立て、竹竿につけた張り子のタツガシラ(龍頭)、タツガシラには登り龍と下り龍がある。花籠(棒の先に花飾りをつけた籠、なかに紙吹雪がいれてある)、紙製の花輪(施主名つき)、金銀白のシカ花と蓮華、つみ団子、一杯飯、おりく膳、供物(果物・菓子)、位牌、棺を納めた駕籠と続いた。昭和三十年代になると遺影が用いられるようになった。棺を納めた駕籠に白い晒布が結び付けられていて、のばした布には遺族や親戚の人びとがつかまって歩き、一般の会葬者がそのあとに続いた。子どもの棺のときは前から引っ張ったという。
 葬列の通る道の辻や橋のたもとにロクドウ・リクドウ(六道)またはツジロウというものを立てた。これは丸や四角に切った紙に一メートルほどの長さの「よし」や萩を突き通し、先を斜めに切ってろうそくをつけたもので、死者への道しるべといわれていた。
 葬列は火葬場への途中菩提寺に寄り、境内で駕籠を中心に左回りに三回回った。これは死者の魂が目を回して帰ってこられないようにするためといわれていた。その際花籠を回して細かに切った色紙をまいた。
 このあと駕籠から出した棺を本堂に入れ僧侶が読経引導を渡した。ここで一般の参列者は帰り、遺族や親戚、棺を運ぶ者たちだけが供物やシカ花、さらにヤキコ(オンボヤキ)への酒や弁当を用意して火葬場にいった。
 葬列に使われた道具類は寺に用意してあり葬儀の度に手入れをして使用した。新湊では国道筋に今はなくなった地蔵堂の軒先に小屋掛けして道具類を保管していた。
 しかし、これらの道具類も昭和四十年代になるとだんだん使用されなくなり、今では焼却されたり破棄されたりして残っていない。
 葬列の時の服装は、遺族や身内の男性は白の羽織に白の袴、あるいは長めの白い羽織(半天)を着物や洋服の上に羽織った。女性は白の長着に白い帯、または留袖の上に白い羽織を羽織って頭には白い布をかぶった。これらの衣装は寺や葬儀屋から借りて着用した。参列者は白を着用する代わりに白い布切れを衿から背中にかけてつけた。

図4・5・1 能生家の葬列順序(浄土真宗)昭和35年4月8日