明治末期から昭和十年代にかけて三陸地方からもう一つの漁法が津軽海峡の両地域にもたらされた。それは、テンテン釣りという漁法である。渋沢敬三が『日本釣漁技術史少考』(昭和三十七年)のなかで、「鉤錘手釣」として次のように記している。
シャクリ釣のごとき竿の利用範囲より深度が進むと、その弾性利用も不自由となり、手釣としての鉤錘使用を見る。タイ、アマダイなどのテンヤまたはテンテン釣のごときこの代表例である。切頭円錐または弾丸形の六ないし九匁鉛錘に鉤軸を鋳込んだ鉤先にイカまたはエビを刺す。普通孫鉤を使用し、時に鉛粒糸を用う。鉤錘が海底に着いた瞬間すかさず三手四手手繰り上げまた徐々に降し、これを繰返す。竿に代うるに手のシャクリである。四十ないし六十尋の深度ゆえ多分の熟練を要す。鉤錘利用は案外多く、アマダイなどの漁種によっては片天秤を併用する。
この漁具・漁法が両地域に濃密に分布しており、どのような経路を経て伝えられたかが、実際に使用している漁師や漁業関係の文献でも明らかにされず、この地域で考案され普及したものとされることが多かったが、『広田漁業史』(昭和五十一年)によりその伝播経路を知ることができた。
広田は、三陸海岸の南部に位置し、現在は岩手県陸前高田市に属しており、漁業を主たる生業としている。以下、同漁業史からその概要を紹介することとする。
明治三十一年に徳島県人の楠本勇吉が、広田、大船渡にきてヒラメ一本釣り(テンテン)を指導した。その弟子の黄川田万治郎が、大正二年に金華山方面に出漁したのが遠征の初めてだという。
そして、昭和八年旧三月三日に襲来した三陸大津波により前沖の漁場に壊滅的な打撃を受けた同地区の漁民が、ヒラメの新しい漁場を開拓するため四トン級のモーター船を建造し、青森県、北海道方面に同年七月に視察団を派遣し、その結果、青森県は下北半島の佐井を中心に、北海道は亀田半島の恵山と松前半島の福島・吉岡を中心とすることとし、北海道九、青森県一〇の漁業組合に依頼状を出し、昭和九年から出漁し好成績を上げたといわれる。
この時に使用した漁具がテンテンと呼ばれ、円錐状の鉛の重りから鉄線の腕を二本出しその先に鉤を付けたものを海底まで降ろし、糸を上下させながらヒラメが食いつくのを待つ漁法であり、その後改良され現在まで広く使用されている。
その後、この漁法が注目されることとなり、昭和十三年には北海道庁の要請により指導員を派遣し、同十六年には山形県西田川郡水産会から招かれ、昭和十九年には京都府水産試験場にも招かれて指導にあたった。
主として、この地域の代表的な漁業を魚介類別に漁法・漁具および流通の変化などについて述べたが、津軽海峡を挟んだ両沿岸地域は、漁業においても最初に記したように多くの点で共通しており、同じ文化圏として捉えることができるのではないだろうか。
また、潜水漁法などの古くからの漁具・漁法の伝承を残している北限であるとともに、日本海および太平洋を北上または南下してきた漁具・漁法が、合流しさらに改良され他地域に再び還元していく一大センターの役割も果していた地域とも考えられる。