[村会と村会議員]

534 ~ 535 / 1483ページ
 昭和2年(1927年)、2級町村制が全面的に改正され、明治39年(1906年)定員12人、大正9年より16人であった尻岸内村の議員定数が18人となり、昭和3年6月1日の第12回選挙より実施(尻岸内村は13回より実施)されることになった。
 この改正により選挙制度・規定も大正期の「委任状による代人投票」が廃止されたり、簡単なものから市制・町村制と同様、より民意を反映する方法など細部にわたる規定が設けられるようになった。例えば「会議規則」や「傍聴人取締規則」が設けられ、村会の運営は専らこれらの規則に則って行われ、第1・第2・第3読会方式で審議が進められ、効率化が図られるようになった。などがその例である。
 昭和初期の村会のなかでは、「船入澗築設の位置」にからみ一部には分村運動を企てるという動きのなか、論議伯仲大いに揉め抜き解決を図ったり、「駒ケ岳噴火による昆布礁災害復旧事業にまつわる不祥事件」の影響を最小限度にとどめるための議会努力をするなど、また、小学校高等科設置について、校区の要求を調整するなど、民意を反映するため村民注目のなか、堂々の論議を展開していた。しかし、大陸での戦禍が広がるにつれ、さらに太平洋戦争に突入後は、地方議会・村議会も大政翼賛会・翼賛壮年団等の影響下、いわゆる「翼賛選挙」となり、村会も政府の方針に則り戦争遂行のための議題が主となり、民意の反映はおろか質疑もなく「満場異議ナシ可決」がそのほとんどを占めた。そして、敗戦の色濃くなった19年には、開催議会を「敵前議会」とか「決戦予算」などと、背広を脱ぎ国民服(軍服調の色彩・デザインのもの)をまとった議員が、真面目にそう呼んでいた。
 次に、統計数字にみる当時の議会活動の状況を記す。

『統計数字にみる議会活動の状況』

 以下に昭和3年から同19年までの村会議員当選者(補欠選挙を含む)を記す。