公職追放
終戦直後の行政、とりわけ地方行政については、戦中の体制のまま政府・GHQの命令指示に従って施行されてきたが、昭和22年(1947年)1月4日付連合国最高司令官「覚書と勅令第1号」による公職者の資格審査が開始された。
すなわち、役場吏員、警察職員などの公務員や一般公職者、議会議員・立候補者など特別公務員は厳しい公職資格審査を受け、追放該当者はいやおうなしに公職から追われた。村会議員に立候補する場合の“公職審査表”を例にとると、
記載事項は、個人的事項と、職歴・軍歴・団体歴の2つに分かれて、前者には就こうとする地位・現在の公職・生年月日・出生地・本籍現住所・身長体重など身体的特徴、後者では団体歴の中には大政翼賛会・翼賛政治会などの加入・各種団体への寄付行為・各団体から受けた栄誉・法人等の地位など詳細に記さなければならなかった。また、役場吏員の公職審査もほぼ同様なものであった。
このような厳重な審査が行われ管内市町村でも相当数の公職追放者がでた。特に、昭和12年7月から20年9月まで、大政翼賛会町村支部長・大日本翼賛壮年団町村団長・帝国在郷軍人会町村会長などを歴任した人々が、その対象になった。
尻岸内村の要職から去った人々
敗戦の色濃くなった昭和19年4月村長に任命された井上悟は、政府・軍部の命令に従い郷土の戦う体制づくりの再点検を行った。その中での重要な任務を担ったとして、当時の翼賛壮年団長沢田綱蔵、副団長工藤明導、在郷軍人分会長川村留吉、副分会長石岡金蔵・東助三郎が公職から追放された。諸氏はいずれも責任感が強く村の要職に就いてきた人々であり、その職務に対しての熱心な活動は村民の模範とされてきた人々である。追放の要因となったこれら組織の役職も政府・軍部の命令により就任したものである。
因みに、在郷軍人会の組織・活動について、その一端を記す。
在郷軍人分会の幹部は函館連隊区司令官から任命(任期2年)される。会の構成は退役兵や補充兵が主で、第1班日浦、第2班尻岸内、第3班古武井、第4班恵山、第5班御崎に編成されていた。この各班にはそれぞれ班長が置かれ諸活動についての指導助言を行い、在郷軍人会全体への指揮命令は分会長の権限となっていた。分会の最大の行事は年1回の雪中総合訓練と慰霊祭の主催で、その他、翼賛壮年団、警防団と連携し、婦人会・青年団・部落会等に竹槍訓練や防火訓練を指導したり、精神訓話の集会や銃剣道大会を催していた。こうした努力が認められ、関係機関から屡々表彰を受けている。
これらの活動が、公職追放に値するほどの戦争責任であったのかどうか、疑問の余地はある。しかしGHQは、アメリカの脅威となるべき戦力の要因(思想・啓蒙活動なども含め)を一切抹殺する方針をとった。なかんずく公職者については平和主義・民主主義を強力に進める上で、戦事遂行の組織上、責任ある立場にあった者は容赦なく追放したのである。
なお、この公職追放の全国的な経緯について若干触れる。
公職追放が始まったのは、昭和20年(1945年)10月のことである。まず、GHQの目に止まったのは日本の警察権力であった。戦時下の警察の任務は本来の警察業務の他に、銃後(国内)の治安維持をはかることにあった。このため言論・思想・集会・結社・出版などについて監視の目を光らせ、特に政治犯については厳罰をもって臨んでいた。10月4日GHQは「政治的公民的及び宗教的自由制限の除去に関する覚書」を以て、全国警察部長の一斉罷免、特高(特別高等警察の略・政治思想関係を担当した課)・外事両課の廃止と課員の一斉罷免を指令した。
この指令によって北海道では警察部長以下207名(20.21年)の警察官が罷免された。 翌21年(1946年)11月8日には、追放令の範囲を広げ地方公共団体の公職についても、これを適用することとした。GHQはこの措置により、地方の公職から急進的な国家主義者を追放し、地方の民主化を促進しようとしたのである。その結果、これまで地方の封建層の支持をえていた自由、進歩の両保守政党は、直接(旧議員あるいは立候補予定者の追放)間接(強力な支持者の追放)に地盤が崩されることにもなり、きたるべき地方選挙に立候補する人材がいなくなるという地方も少なくなかった。
しかし、中央政局では直接の動揺はなかった。むしろ既成有力者の壁が取り除かれ、新進気鋭が活躍の場を与えられたり、戦時中の弾圧から解放された、いわゆる革新陣営の台頭をみるなど、むしろ好影響が現れた。
当時の資料(昭和23年度版北海道年鑑)によると、
公職追放者総数 10,915人
公職交替を要する者 162,915人
*これは、昭和20年9月2日以前より引き続き市町村長・助役・部落会長の職にあった者で、次の交代期には1任期間、その職に付けない者