(3)漁船の動力化と漁業者の2層化

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 大正後期になると漁船の動力化は尻岸内でも盛んになる。最初は電気着火式発動機が盛んに使われていたが、船の機動力から沖合に出漁するようになるに従い焼玉機関(註)が採用されるようになった。昭和5年以降になると大型の漁船にはデーゼル機関を装備する物も現れた。函館の定井鉄造が昭和5年9月、底曳網船百馬力のデーゼル機関を搭載したのが最初といわれている(北海道漁業史)。
 次の表は尻岸内村の動力船・無動力船についての(昭和8年度~11年度)資料である。
 尻岸内村においても漁船の動力化の傾向は見られるが、統計の昭和11年でも漁船総数の1割にも満たないし、船体も5トン未満の小型船が多い。
 漁船の動力化により操業海域を沖合へと広げ、漁獲高を倍増させ生産額を上げた船主らは、さらに船の大型化・デーゼル機関の装備などに資本を投入し事業を発展させる一方、沿岸の専業漁業権(前浜)で生計をたてる多くの自営漁家、また、小動力船を持ってはいるものの仕込融通の借金で身動きのできない小資本漁家も多く、結局は水揚げした漁獲物も買いたたかれ“働けど働けど、借金は増えるばかり”の状況を呈していた。
 そこには必然的に「船主」と「乗子」という関係がいよいよはっきりとし、言い換えるならば、漁業者にも資本階層と労働者階層の2層が生じたといえよう。
 昭和に入ってからの不況は自営漁家の零細化を招き、漁家の主婦や娘たちは陸廻りの作業(船主の経営する加工場など)を余儀なくされた。漁家の子女の労働率の統計によれば、昭和2年には23%であったが、同5年には60%を上回っている。なお、この時代不景気になって、経営者が安い労働力を求めた結果による面も見落とせない。

[表]

(註)焼玉機関(エンジン) 内燃機関の一種(セミディーゼル)で気筒の圧縮室の一部を赤熱し、これにピストンで圧縮された混合ガスが接触・爆発する機関で、軽油を燃料とし取扱いも簡単で小型漁船のエンジンとして普及した。