(3)講和条約発効と水産業

808 ~ 809 / 1483ページ
 1951年(昭和26年)9月8日、対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)が調印され翌1952年4月28日発効し、水産業界が待ち望んでいたマッカーサーラインが撤廃された。漁船の動力化や漁具、漁労技術など生産条件は、前年の朝鮮動乱を契機とした産業界の急激な復興に伴い着々と向上しつつあった。マッカーサーラインの撤廃は漁業者の生産意欲を大いに喚起し生産は上がりはじめ、昭和26年からの統計では戦前の生産量(昭和10~12年)を上回るようになった。
 この前年の昭和25年、農林省はまず国内の水産資源開発に着手、「北海道魚田開発実施要項」を定め、道水産試験場はこれまで見過ごされていた海域の漁場調査や、利用度の低かった魚族の製造試験(加工)を行い、その成果を漁業者に提供・指導を行っている。
 同27年には日米加三国漁業条約の締結にともなって、北太平洋の母船式鮭鱒漁業や母船式捕鯨が再開され、翌28年にはブリストル湾(アラスカ)の母船式蟹漁業(カニ工船)も再開された。本町からも多くの人々が鮭マス・カニの母船、あるいは独航船に乗組み北洋へと向かった。北洋漁業はカニ船団が4月初旬から9月頃まで、サケマス船団は5月から9月初旬と、4、5か月の操業で仕事は猛烈に厳しかったが収入がよく“3年か4年北洋へ行くと家が建つ”と伝えられもした。
 因みに、34年から37年に尻岸内村から北洋漁業に出漁した人数は34年125人、35年163人、36年191人、37年151人。なお、昭和37年の事業所(企業)別、漁獲物別人数は次表の通りである。
 30年の全漁獲高は28年に比べて、約1割増、中でも遠洋漁業(北洋漁業)は5倍と飛躍的な増加を見せたが、31年に入ってからは、ソ連をはじめ関係諸国による対日漁獲規則制(年度の漁獲高の取決をする制度)への動きが強まる一方、国内的には沿岸魚族資源の減退が顕在化し、当面、急成長を見せている水産業界は内外両面の課題を抱えることになった。政府は、前者については国際的な魚族資源保護についての科学的な取組みと、外交問題としての政治的対策を講じることとし、後者については再び沿岸漁業の振興を図ること、すなわち新しい漁場の開発・魚法転換(例えば認可漁法の再検討)・漁業技術の改良(例えば養殖事業)などを織り込んだ新しい施策として『新農山漁村建設総合対策』を打ち出した。
 この時代、道南地方はこれまで回游していたイカの大群がぴたりと止まり、尻岸内村の人々の生活も窮迫し村財政もまた危機に瀕していた。村の有識者らはイカ・コンブに頼る漁業からの脱皮を模索していた折でもあり、政府の打ち出したこの新農山漁村建設総合対策に大きな期待をかけ、村理事者・有識者を中心に総合計画樹立に真剣に取り組んだ。

[表]