北海道倶知安町に近い岩尾登(イワオノプリ)鉱山は、明治二十五年(1892)三井鉱山が三井物産から継承して以来の硫黄山であった。明治四十三年(1910)新しく焼取精錬所を設け、鉱石を蒸発釜で熱し硫黄分を気化させたのち、液化のうえ凝固させる焼取精錬が始まった。岩尾登(イワオノプリ)の鉱石は五〇%前後の硫黄分を含む高品位のものであり、金や亜鉛の精錬が本格的に始まった同じころ、硫黄の本格的な精錬も開始されたのである。
ところで、当時の硫黄は八〇%以上がアメリカ、ドイツなどへ輸出されていた。その硫黄販売において、同じころ三井物産の主導権確立が進んでいたことにふれておかねばならない。明治四三年六月七日、三井物産取締役会の席上で飯田義一常務取締役は硫黄の販売について次のような報告をしている。
「硫黄の本邦産額は『三井合名会社六、七千屯、大日本硫黄八千屯、押野一万五千屯、小口二万屯、計四万屯』。需要は『米国二万二、三千屯、豪州・独国(ドイツ)一万屯、内地(国内)七千屯、計四万屯』となっており、内、三井物産取扱は三井合名会社並びに大日本硫黄分、合わせて一万五千屯となっている。
右押野(最も産額の多い)の分は、当社一二、三年間取扱いたるも、貸金の依頼に応ぜさりし関係上、遂に米貿(米国の貿易会社)の手に移りたり。同坑(押野)は今日、一万五千屯の産額なれども二万屯位は出し得る山なれば、是非当社に取りたい考えなるか。この度面白き話し合いとなりたる事は、押野は米貿に八幡円借り居りたるか、その後暫次返却、目下四万三千円なり。外に山縣一派の松本、中村より二万五千と四万五千、計七万円の借金あり、総計一一万三千円の借金である。米貿の分は、(四万三千円の借金)本年中に返却すべきも、山懸の方は五か年間この金を借りるにつき、利益の分配をなす約束あり、押野は山縣に対し、五月三〇日に支払うべき利息の支払いを怠りたるにより、契約条項により一時に全額の弁済を要する事となり、大いに困迫し居れり。
右に就ては、この際二万五千円を支払えば山縣の方は片付くべく、且つ、一番抵当権者米貿易商会の借金四万三千円を支払い、当社(三井)に抵当権を収め、本年の米貿との販売契約結了後、その取扱いを収むれば、当社は硫黄上大いに優越の地位を占め、硫黄商売を左右し得るべし。」
明治38年度 村費賦課税額
道内の生産高の多い硫黄鉱山 (昭和42年 北海道地質調査所 金属・非金属鉱床総覧より)
三井鉱山は、明治四十四年十二月から四十五年一月までの間に、押野・中村(山縣)から全鉱区を買収(採掘面積一三五万二、七七二坪、試掘鉱区面積八九万二、四〇二坪)大正元年(1912)三井古武井鉱山の採掘を開始した。同鉱山の同年の採掘量(生産高)は、約一万一、五〇〇トンで、三井鉱山の硫黄産出高は一躍跳ね上がった。このような経過を背景に、大正三年(1914)七月、三井物産と各硫黄鉱山主・小田良治<幌別>、日本硫黄<沼尻>、中村定三郎<赤倉>、箕田定吉<板谷>、押野貞次郎<鳴子>、三井鉱山<古武井・岩尾登>、との間で、プール計算法による一手販売成立したのである。この硫黄プール制は、大正九年(1920)三月まで継続し、反動恐慌の進む中で解散した。(以下省略)
この三井事業史には、三井鉱山の古武井硫黄鉱山買収は、硫黄業界における三井物産の販売上の主導権を握るため、硫黄総生産高に占める自社のパーセンテージを上げることが重要と考え、当時、全国一の生産量を上げていた押野鉱山の借入金・抵当権の問題に乗じ、タイミング良く買収した事実が述べられている。そして、三井物産は思惑通り硫黄販売での優越の地位を占めたが、三井古武井鉱山の硫黄生産高は逆に年々減産となり、大正7年には相当の埋蔵量を残しつつ廃山としている。その理由は定かではないが、第1次大戦後の戦後不況の影響と、硫黄の大量輸入国であったアメリカで、大正6年(1917)画期的な採掘法(フラッシュ法)が、Herman Fraschにより発明され、明治25年(1892)に発見されていたメキシコ湾岸一帯の大規模な硫黄鉱床が、この方法により開発されたことなど、硫黄市場の国際的な将来を予測しての方針のように推測される(この頃から米国は硫黄輸入国から輸出国に転じ、やがて世界最大の生産国になっていく)が、三井事業史には、廃山の事実のみ記されているだけである。ただ、三井が明治25年に開発した高品位で古武井に次ぐ生産量の岩尾登鉱山は、三井から分離、幌別鉱山と合併し、別子会社「北海道硫黄株式会社」として昭和7年まで操業を続けている。
なお、三井鉱山株式会社は、大正3年に開催された『東京大正博覧会』に『三井古武井鉱山・硫黄』を出品しており、その解説書には鉱山の概要が要領よくまとめられている。
以下、採掘・選鉱・精錬・労務者の賃金等はこの解説書を参考に記述する。