昭和20年(1945年)8月15日、天皇の玉音放送により世界を相手とした我が国の戦争はようやく終わりを告げた。敗戦を迎えた我が国は、滿州事変(1931)、日華事変(1937)、そして4年間ものアメリカとの太平洋戦争(1941)に完全に疲弊していた。
原爆の投下を受けた広島・長崎は瀕死の様相を呈し、度重なるB29の空爆に首都圏は焦土と化し、行政機能は麻痺、全国の重要な都市部・工業地帯、交通の要衝・港湾なども壊滅的な打撃を受けた。もちろん、鉄道・道路・橋梁も各所で寸断された。昭和20年7月14・15日の北海道の空襲では、青函連絡船をはじめ函館港に停泊中の船舶は全滅、空襲は道南の全漁港に及び漁船までもが壊滅状態となった。この空襲の狙いは、北海道と本州との交通を完全に遮断するための作戦であったという。
戦後の我が国の復興は諸外国の目を見張らせた。GHQ(連合軍総司令部・米国)の物的・制度的援助を受けたとはいえ、国民の熱意と勤勉さは平和産業をいち早く復活させ、政府は物資の流通を促進するため交通網・国鉄や幹線道路の復興を重点政策とした。