尻岸内村としても、民営バスにばかり頼っているわけにもいかず、この打開策として、昭和21年に省営自動車(国鉄バス)運行の陳情を企図した。省営自動車については、昭和7年、函館運輸事務所が運行を検討したが、当時運行していた下海岸自動車の経営を圧迫しては…という配慮からか、立ち消えとなった経緯がある。以下の資料にも記しているように、同20年に省線計画の調査準備をするとの情報を得ての企図・引継文書であるが、その後の動向についての資料がなく不明である。(第8節2、省営自動車の運行を検討の項参照)
以下に、その資料を記す。
『資料 昭和二十一年(一九四六)三月三十一日付、事務引継書(抜粋)町有文書より』
一、省営自動車の運行方ノ件
本村現在ノ交通運輸機関ハ函館乗合自動車及道南貨物ノ両者ノ経営ニ係ル、函館椴法華間路線ノミニシテ、不定期アルイハ運賃高額ニシテ村民ノ不利不便甚大ナルモノアルヲ以テ、昨年来鉄道局ヨリ省線計画ノ準備調査ノ次第モアリ、コノ好機ヲ逸セズ関係町村ト会議ノ上、急速ニ省線営業方、陳情ヲ要スルモノト思料ス。
勿論、省線は実現には到らなかったが、この事からも当時の交通状況が相当劣悪で、村当局としても、何か手を打たなければという切羽詰まった状況にあったことが窺える。
運輸事業は政府の最重点であり、再建5か年計画の実施とともに次第に復旧の兆しが現れた。自動車・トラックなど車輌生産については、軍事産業からの転用がもっともスムースに行われた分野である。軍用車・戦車、さらに戦闘機などの軍事研究で培った技術が生かされた。バス車輌は木炭車などの代燃車から電気バス(蓄電池使用)・ガソリン車、燃料代が安価で馬力の出るディーゼル車の出現にそれ程の年数はかからなかった。そして、バスは車体もエンジンの出力に併せて大型化していった。
昭和25年頃になると、国鉄が線路の改修、新しい機関車の導入等、復旧や基盤整備に手間取っている間に、小回りの利くバス会社は新車購入のサービス改善など整備を着々と進め運行距離・輸送量ともに急成長し国鉄を脅かすまでに到った。