駅制から飛脚まで

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 わが国においても、古代(奈良・平安初期)の律令体制のもと「駅逓」が設けられたが、これは唐の制度を取り入れたものであった。京を中心にして道路が開かれ駅(「うまや」といわれた)がおかれた。駅には駅馬が備えられ、それを乗継いで使者は目的地に走った。重大な事項を伝えるための「飛駅」という至急便もあった。
 
 平安時代の半ば(10世紀)律令政治が崩れると共に駅逓も衰え、駅そのものも廃絶してしまい、代わって街道には商業の発達に伴って「宿」がつくられた。
 鎌倉時代になると、この宿をつないで武家の「早馬」が走った。早馬は武家政治のもとにおける公用の至急便であった。
 戦国時代になると大名が割拠して争い合い、各領地内での交通や通信の発達は計られたが、領地外は敵と見なし境界は厳しく固められ、要所には関所が設けられた。したがって、全国を通じる通信制度が整えられたのは、秀吉による天下統一以降のこととなる。
 徳川の世になると、江戸を中心に五街道が整備され「宿場」「飛脚」が設けられ、通信は著しい発展を見せた。江戸時代の「飛脚」はウマを用いず足(脚)で飛ぶように走った。幕府の御用を務めるのが「継飛脚」で公用の書状を入れた「御状箱」を担いで、2人1組で宿場から宿場へと継走し「御状箱」を送達した。因みに江戸から京都まで通常90時間、至急便は60時間で達したという。これらの飛脚はあくまでも公用であり、庶民は勿論、武士さえもこうした施設を利用することができなかった。
 17世紀も後半(元祿時代)になると商業の目覚ましい発達に促され、江戸京都・大阪の商人達が相談し合い3都間を往来する飛脚が生まれた。これが「町飛脚」の始まりで、幕府から定飛脚として免許を受け営業を行った。町飛脚は、依頼主から料金の前納を受け書状や荷物を運んだ。一般のための民営郵便はこうして生まれたのである。
 当時、町飛脚のことを「定六」「三度飛脚」と呼んだが、定六は、東海道を6日かかって配達したことによるもので、三度飛脚は、月3往復したことによる呼び名である。
 時世が進むにつれ町飛脚の営業範囲は、五街道から九州や東北へと拡大していった。料金はきわめて高額であったが、江戸時代の後期、19世紀にはほぼ全国に渡ってこの民営郵便制度は普及し、飛脚といえば民間の郵便を扱うものとして親しまれていった。