すべての国民に対して学校を設け、就学を奨励するという我が国の近代的教育制度は1872年(明治5年)の「学制」の公布に始まる。明治維新により、歴史・社会・経済の大変動、大革新が教育にも大変革をもたらし、国民全体に新しい西欧の実学の世界を開いた。その新しい教育体制の構想は幕藩時代における教育機関とは、まったく異質な原理にもとづく新たな出発を求めるものであった。
新たな教育制度は、教える者も、子どもを学ばせる親も、自らの体験もなく、模範となるべきモデルさえ求めることができない、この国のまったく新しい機構の創出であった。
そのひとつとして、教師となった者の中の多くは旧寺子屋の師匠であった。しかし、彼らは寺子屋を改造した学校の先生になったのではない。明治政府が設けたまったく新しい職種である「小学校教員」になったのである。教える内容も教える方法も、長年の伝統と多くは恣意によったそれまでの「教え」とは、まったく違う立場と方向を求めざるをえない教育の維新でもあった。
一方、当時の庶民には、うとましい身分制度や日常の経済状態から解放が可能にもなる「学問」を身につけることのできるのは、「学校」であるとの理解はできつつあった。
しかし、現実の生活の中からそのために必要な経費、授業料などの経済的負担を考えると、学校の建設はその実態からかなり重いものでもあった。
また、先駆的なところで開校はしたものの学校で教えられる内容は、日常生活からかけ離れたものであるという風聞も加わってくる。
このように我が村に学校を設立しなければならないという時代の動きや有用性は、徐々にとらえつつも、現下では必要かつ有益なものとしてとらえるにはまだ距離があった。
それに反して、時代の近代化への流れは急速であった。尻岸内村でも、尻岸内・古武井・根田内の各地区では学校設置に向けて、1880年(明治13年)の4月に「公立学校設立伺」を提出するなど、慌ただしく動き出さざるをえなかった。
前節のように3校の「公立学校設立伺」が、それぞれほぼ同時期に提出されたが、各学校ともその年内の届け出から4ヶ月もたたないうちに開校されていることからも、認可以前に学校施設や運営方法など、開設のための準備が相当に進められていたのであろうと思われる。
だが、開校時を含め明治期の学校の状況を知る手がかりとなるべき各学校の「学校沿革史」は、残念ながらその時代のすべてが欠落している。
今では「学校沿革史」は、法規で各学校において必ず備えるべきものとし、学校の歩みのあらゆる内容が記録されており、永久に保存すべきものとなっている。
現在、町内の各小学校に残されている「学校沿革史」は、大正年間に当時の校長によって、開校時を含めて明治年間における学校の歴史を古い記録や古老等の聞き取りをもとに新たに起草されたものである。
しかも根田内学校は、後を引き継いだ恵山小学校が、1941年(昭和16年)に校舎を焼失するという災害により、1890年(明治23年)に統合した「古武井学校」の分も含めて、沿革史に相当する記録等は残されていない。
各学校とも沿革史の始めのページには、「緒言」「例言」と称し、新編の事由と経過が示されている。町内で最も早く開校した尻岸内小学校の現存している「尻岸内小学校沿革史」の初めには、以下のように記述されている。
例 言
尻岸内尋常小學校沿革史更正ニツキ材料トスベキモノ 明治三十六年石澤末次郎氏構成ニカカル學校沿革誌 並ニ関精造氏構成ノ明治四十三年以降沿革誌及大正元年度沿革誌以上三冊アルモ 内容ニ於テ何レモ學校創立以來ノ系統的編纂ニ非ラズ 且其ノ筋ヨリ指定セラレタル 學校沿革史編纂項目ニ對シ遺漏多クシテ 材料甚タ少ナシ 村古老ニ尋ヌルモ 其ノ語ル所區々ニシテ信ヲ措クモノ 亦少ナケレバ既往ノ沿革ニツキ勉メテ調査ヲ重ネタルモ 自然系統ナク 且粗略ナルヲ免レズ
大正三年十一月 更生者 溝江留吉 識ス
どの学校の沿革史もこれと似たような内容である。
この例言でも分かるように尻岸内小学校の沿革史は、第8代目とされている溝江校長が残されている不十分な記録をもとに、新たに編纂したのが現存されているものである。
それとて正確なものではなく、開校してから大正初めまでの学校の沿革は、他の記録文書に頼らざるを得ないのである。
急速に進展した時代の流れに学校自体が揺れ動いた時期でもあり、記録性よりも明日の見通しを立てなければならない現実の姿が、開校時から明治末までの現存しているわずかな記録と文書等からも読み取れるのである。