5、六・三制と新しい学校体系

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 六・三制とは、小学校6年間・中学校3年間(現行)の義務教育制度をいう。
 この六・三制は、昭和22年(1947)3月31日、教育基本法と同時に公布された学校教育法立案の中でも、総司令部(GHQ)と日本政府が最も対立した制度である。
 この制度の理念は、憲法第26条「1、すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」にある。すなわち、国民学校初等科は、国民が共通に学ぶ義務教育学校であったが、そこを終了し次の段階からの学校系統は細かく分かれ、大学まで到達できない行き止まりの「袋小路」が多かった。この当時の国民学校を終了した生徒、約765万人のうち高等学校・専門学校・大学の高等教育を受けたのは5パーセント弱で、70パーセント弱が国民学校高等科・実業学校・青年学校・実業補習学校という中等学校、または準中等学校で学んでいた。このように「袋小路」が多く、不平等にして階級的な「複線型」の学校体系を改め、だれもが平等に教育を受けることができる民主的な「単線型」体系−義務教育から大学まで進学できる体系に再編成することが学校制度改革の中心的な課題であった。
 このような方向を目指す「新学制の構想」が明らかになるのは、先述の米国教育使節団報告書・日本側委員会報告書(昭和21年3月)、新たに組織された「教育刷新委員会の建議(同年12月)、学校教育法公布(22年3月31日)の過程においてである。
 これらの過程については省くが、明治の学制以来の教育革命ともいわれる「単線型」・六三制学校体系が、米国教育使節団報告書によって初めて日本にもたらされたという考え方は間違いである。米使節団が報告書をまとめるに先立って作成された日本側委員会の報告書に、「小学校」6年(義務制)の上に「初等中学校」を設け、これを義務制とし、その「初等中学校」では職業別の学校種別を設けず、主として普通教育を施す学校にする、という改革案(第1案)が提示され、さらに六・三制構想が戦前、昭和期の学制改革論議のなかでも言及されていることも明らかにしている。
 教育刷新委員会で21年10月、六・三・三・四(小学校6年間・中学校3年間・高等学校3年間・大学4年間制)が提案され、その採用が決まったのが12月、審議わずか2月(ふたつき)という異例の早さであった。これは10月3日の段階ですでに六・三・三の体系を前提として討議され、4日には六・三制を決定、さらに男女共学・全日制を原則とすることが決まったという。
 新制高等学校についてはやや難航、旧制高等学校・旧制専門学校・私立旧制中学校の処遇問題、義務化一歩手前の青年学校との関わりなどが問題となったが、結局、義務教育の中学校につづく教育機関は「高等学校」として、3年制を原則とするが4・5年制もありうる、全日制・定時制の2種類を認め、教育内容は普通教育と専門教育を行う場とした。
 大学についての議論はもっと難航した。旧制専門学校・旧制高等学校の処遇、つまり新制大学昇格による学術水準の低下を危惧したこと、さらに師範学校の存続など教員養成のあり方を考える問題もあったためである。論議のすえ「高等学校につづく教育機関は」は、4年制の「大学」を原則とすること、および「大学」には研究科または研究所を設けることができ、そこに大学卒業後とくに学問研究を志す者を入学させる、ことの2点が決まり、高等学校問題も同じように、前述の教育刷新委員会の建議の内容として盛りこんだ。
 なお、「高等学校」は旧制中等学校(旧制私立も)が昇格、青年学校は新制中学校、「大学」は旧制大学と、原則として旧制高等学校・旧制専門学校および師範学校が昇格した。
 文部省は「教育刷新委員会」の建議をうけて、CIE(民間教育情報局)と折衝を重ねながら学校教育法の立案作業を進め、22年1月17日の閣議に全文114条(10章および附則)からなる草案を提出した。総司令部はこの六・三制を日本の教育民主化の中核として即時実施を要請したのに対して、日本政府の部内には経済事情や国家予算の不足等から強い反対があり、吉田首相も実施に消極的であった。しかも、この日の大蔵省・予算省議で、文部省が六・三制、22年実施3カ年計画の初年度予算を要求したのに対して、全額が削られたのであった。事態を憂慮した教育刷新委員会は、「国家の再建にあたって教育民主化の実現の切迫切実なる必要に鑑み」六・三制義務教育制度の22年実施を緊急に要望する建議を2回にわたり行った。
 草案はいくつかの修正が施され、3月7日に閣議決定、手続きを経て正式に政府原案となった。9章と附則あわせて全文108条からなる「学校教育法案」は、3月15日、第92帝国議会に提出され、教育基本法案を審議した同じ委員会で審議され、貴族院本会議を通過、29日裁可、昭和22年3月31日公布され翌日から施行されたのである。
 
六・三制の実施と国民学校令の廃止
 昭和22年3月29日付、法律「第25号」をもって『教育基本法』・法律「第26号」をもって『学校教育法』が公布され、ついで、5月23日付で文部省令「第21号」による「学校教育施行規則」が定められ六・三制実施となる。したがって「国民学校令」が廃止となり、国民学校は小学校と改称、修業年限6年の義務制となり、新たに修業年限3年の義務制「中学校」、いわゆる新制中学校が設置された。
 尻岸内村の日浦・尻岸内古武井・恵山の4つの国民学校も再び小学校と改称され、昭和22年5月、それぞれの小学校に新しく生まれた「新制中学校」が併置された。