『青年学校令』第14条に「青年学校ニ於テハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得ズ、但シ都道府県立ノ学校ニ在リテハ文部大臣、其ノ他ノ学校ニ在リテ地方長官ノ認可ヲ受ケタ場合ニハコノ限リニ在ラズ」と規定されており、原則として授業料は徴収しないことになっていたが尻岸内村の場合、昭和17年(1942)より青年学校女子生徒に限り保護者より授業料を徴収することした。以下、その規程を記す。
青年学校授業料徴収規程
(昭和十七年四月二十日村会議決 同日告示一七号発布)
第一条 本村立青年学校女子部生徒保護者ヨリ生徒一人ニ付一カ月金一円ノ授業料ヲ徴収ス。
第二条 学校ノ休業、生徒ノ欠席又ハ中途ニ入退学スルコトアルモ、前条ノ授業料額之ヲ減免セズ。但シ学校ノ休業又ハ生徒ノ欠席全月ニ渉ル場合ハ其ノ月ノ授業料ヲ徴収セズ。
第三条 授業料ハ毎月二十日限リ其ノ月分ヲ徴収ス。
付 則 本規程ハ昭和十七年度ヨリ之ヲ適用ス。
この理由については、特に記されていないが、当時の青年学校4校、生徒数300名余り、教員・指導員20名以上という規模の、教科や教練の外、(後述するが)行事も膨らみ、与えられた予算では賄いきれなかったのが実態ではなかったか。また、女子部だけからの徴収ということについては、男子が軍事教練・軍人としての教育、つまり“お国のため”ということに対して、女子については任意入学であり、しかも裁縫など個人の技能習得が主であるという、教育内容の価値観から判断されたのではないかと思われる。
尻岸内村によらず、青年学校は全道的に指導員の不足と経費の不足が見られていた。そして、昭和18年4月には1町村1校という制度となり、併せて青年学校専任校長を置くことになったが、本町の場合、昭和19年(1944)、地理的条件から、西地区の尻岸内青年学校(尻岸内小に併設)と東地区の恵山青年学校(恵山小に併設)の2校とした。但し、女子部については通学のことなどを考慮し、日浦・尻岸内・古武井・恵山と各地区ごと各小学校に併設し授業が行われた。