(3)神社神道の国教化

1367 ~ 1367 / 1483ページ
 仏教と切支丹の迫害の狙いは神社神道の事実上の国教化にあった。明治政府はその成立のときから祭政一致をとなえ、官制上にも、明治元年正月の三職七科の制(律令制の職・後記する)で神祇事務科を設置以来、神社・神道国教化のための行政機関を設置、その隆盛をはかる様々な施策をはかった。
 明治元年天皇が初めて江戸城へ入った当時の状況をみてみる。天皇東幸を知らせる勅使を沿道の社格の高い神社に派遣する。江戸城に入り、これを東京城と改める。その4日後の10月17日、「『神祇ヲ崇ビ祭祀ヲ重ンズルハ皇国ノ大典、政教ノ基本ナリ』、しかしながら中世以降(幕府・武家の政権下)そのことがすたれ綱紀不振となった、『方今更始(こうし)ノ秋(とき)、新タニ東京ヲ置キ親臨シテ政ヲ視ル、将(まさ)ニ先ズ祀典ヲ興シ、以テ祭政一致ノ道ヲ復セントスナリ』、よって武蔵国大宮駅の氷川神社を当国の鎮守とし、天皇親幸してこれを祭る」との勅書をくだし同月28日、天皇氷川神社に行幸する。
 さらに、政府は国内の神社のこれまでの社歴・社格を評価考慮し勅祭社、神祇官直支配社、府藩県支配社などの格付けを行い(これは後に、大社・中社・小社・官幣社(かんぺいしゃ)・国幣社(こくへいしゃ)・府県幣社・郷社−尻岸内八幡神社はこれに格付−・村社・無格社等に改められた)、新たに過去の天皇・皇族・忠臣を祭る神社を創建し、宮中の神道儀礼を再興する。