三、汐首観音堂の竜神像

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 汐首観音堂に、円空作の観音像と共に竜神像が祀られ、大漁の神として村人から尊信されている。
 古老の伝えるところによれば、この竜神像は明治二十一年(一八八八)頃、青森県下北郡の大間から汐首に来て、村人から「大間の坊さん」と呼ばれた僧侶が背負って来たものだという。

大漁の神・龍神像(汐首)

 「大間の坊さん」は、汐首の〓吉田家に寄留して布教につとめ、竜神像を観音堂に安置した。その後村人は観音堂を竜神堂とも呼ぶようになったという。「大間の坊さん」は明治二十八年〓吉田家で病死し、同家の過去帳にその戒名が記されている。「前建朿一透間大和尚」というのが、「大間の坊さん」の戒名だという。
 「大間の坊さん」は八雲町遊国寺の開山でもあり、汐首観音堂に安置されている竜神像と同型のものが、八雲の遊国寺と山形の善光寺にあるという。
 汐首観音堂の竜神像の作者は不明であるが極めて精巧なものである。
 「大間の坊さん」が死去してから、村人たちが「弘法坊主」と呼んだ風来坊が汐首に来て、観音堂に寝りしていた。「弘法坊主」は「大間の坊さん」とは逆の破戒坊主で、ろくに布教もせず、毎日のように酒を飲んで暮していた。
 この坊主が、或る年のこと村人が大漁の神として尊信している竜神像を、こっそり盗み出して古宇郡寿都(すっつ)の鰊の網元〓角前家に、十円で売り飛ばしてしまった。
 このことを知った汐首部落では大騒ぎとなり、部落の主だった人々が集って協議の結果「事情を話して、角前家から買い戻そう」ということになり、その使者として弁説さわやかな〓松田富三郎の妻が選ばれた。松田富三郎の妻は早速寿都に赴き、角前家を訪れ事情をくわしく話して、返してくれるようにと頼んだ。
 角前家では事情を了承し「竜神様のおかげで鰊が大漁であった」と礼を述べ、「弘法坊主」に支払った代価もとらず、逆に竜神像に十円を添え、使者を鄭重にもてなして帰したという。
 その後、樺太の長浜村附近で鰊漁場を経営していた〓境家で、竜神像をこっそり借りて樺太の漁場に祀り大漁をしたという。
 年月を経て竜神像が古くなり、すすけたので、観音堂を管理している婆さんたちが相談して、円空作の観音像と共に修理することになり、修理費を募金して、昭和三十六年七月函館の仏具屋に依頼して修理した。
 修理代として竜神像の分として六、〇〇〇円、円空観音像の分として七、〇〇〇円を支払った。
 鰮や鮪の大漁は昔の夢と化したが、汐首部落の人々は現今でも大漁の神として竜神像を尊信している。