二、古武井鉱山の雪崩による大惨事(明治四十一年)

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明治四十一年三月八日午後一時、尻岸内村字古武井、浅田硫黄鉱山双股(ふたまた)旧山の二ケ所で、雪崩によって労務者の家屋が倒壊し、多くの死傷者を出すという大惨事があった。
 鉱山労務者の家屋は、堀立(ほった)て柱に、笹葺(ささぶき)、笹囲(ささがこ)えというい粗末なものであったので、雪崩のために六戸建長屋一棟、五戸建一棟、四戸建一棟、一戸建三棟、計六棟十八戸が一挙に押しつぶされ、その上火災を起し、圧死者、焼死者は男十一人、女十八人計三十九人の死者と重傷者男二人、軽傷者女二人を出すという大惨事となったのである。
 住宅倒壊の際の叫び声を聞いた請願巡査小林捨次郎は急遽(きゅうきょ)浅田鉱山事務所に変を報じ、警鐘を乱打して鉱夫を召集したが、積雪が六尺以上に達し、往来も杜絶(とぜつ)している状態なので、集った者は僅か二十数名であった。
 そこで小林巡査は、鉱山事務所の事務員と共に現場に駈けつけ、鉱夫たちを指揮して、家屋の下敷きになっている者九人を救助し、二人の屍体を堀り出した。ところが吹雪は益々猛威を振い、残りの家屋も倒壊のおそれがあったので、長屋に居住している老人、婦女子一三〇人を事務所及び倉庫に避難させた。
 それらの被害者を救護していたが、旧鉱山にも倒壊した家があったという急報に接し、小林巡査は山県鉱山の応援鉱夫三十余人を率いて急行した。鉱山に行く途中倒壊している家を発見し、下敷になっている者二人を救助し、現場に駈けつけたが、倒れた家から火災が起り、手のつけようがなく、一人の負傷者を救助しただけであった。小林巡査は鉱夫たちを指揮し、長家に居住している老人や婦女子七十余人を倉庫に避難させ、負傷者は全部事務員の住宅に収容して、嘱託医に手当てさせることにした。
 鎮火後屍体を捜索し、これを双股(ふたまた)の旧鉱山の倉庫へ運んだ。
 急報に接して戸井分署長萩田七十次警部が現場に駈けつけた時は既に鎮火して居り、圧死者、焼死者の屍体を収容した後であった。
 萩田警部は鉱山事務所と救護について交渉し、罹災者や死者の遺族の救援についての打合わせをし、第四部長と協護の上、大滝沢で屍体を全部火葬にした。火葬の際は人々の慟哭(どうこく)する声が大滝沢にこだました。
 この日山県硫黄鉱山の樵夫一人が人家のあるところから二十町ばかり離れている山の頂上附近で、木を伐(き)っている時、猛吹雪の為に約十𠀋の谷底に墜落(ついらく)し、雪の中に埋まって凍死した。
 この事件に函館警察署から警部吉村将三が巡査三名を引率して応援にかけつけた。
 浅田鉱山では、罹災者の救護に全力を尽し、死者の葬式の費用を全額会社で負担し、負傷者の診断及び薬価を支給し、全快まで家族に食料を給与し、死者の遺族には一人に対し、死者の受けていた日給の百日分を一時に支給する等萬全の救援措置を構じたのである。
 この悲惨事が畏(かしこ)くも天聴に達し、この年八月五日、御名代として北條侍従を現地に御派遣れた。勅使は萩田七十次分署長が先導し、第四部詰警視米田甚太郎、函館警察長警視山本鎮八郎が随行した。
 天皇陛下からは畏(かしこ)くも、罹災者の遺族に対して、御救恤(じゅつ)金が御下賜され、遺族は感泣したのである。
 北海道の僻地に天皇陛下の御名代が派遺される程、この悲惨事が全国の同情を集めたのである。