明治四十一年六月十一日午後三時三十分、尻岸内村字古武井元山、山県硫黄鉱山の鉱夫大沼友次宅から出火、二十六戸二十六棟を焼失して午後四時三十分鎮火し、人畜の死傷はなかった。
出火の原因は大沼友次の養女佐藤ミワ(八才)の火遊びであった。この火事に請願巡査今野萬太郎は朝田鉱山の事務員と共に少数の人夫を督励し消火に努力したが、消防設備はなし、その上笹葺、笹圍の住宅ばかりであったので、忽ち延焼して、一部落全焼したのである。
鎮火後、罹災者を学校に収容しようどしたが、各自親戚や知己の後に寄寓することになった。