鰮や鰊漁場で切揚げの時には昔から「アゴワカレ」と称して、解散の酒宴を張ったものである。網元から漁夫一同に酒や餅を贈り、賞与金を与えた。
明治四十二年十二月十九日夜、石崎村の川島円次郎所有の小安の漁舎(なや)でアゴ別れの宴が開かれ、酪酊(めいてい)の結果、第一号漁舎(なや)と第二号漁舎との漁夫の喧嘩(けんか)が起った。第一号漁舎の漁夫が第二号漁舎を襲ったので、第二号漁舎の漁夫、富山県婦負郡四方町の七間善助はマキリを携え、小安村字村中の米沢梅蔵はノミを持って第一号漁舎の者と対抗し、大喧嘩になった。
その結果、第一号漁舎の漁夫青森県南津軽郡中郷村大字東馬場尻の白戸秀吉が殺害され、同県同郡黒石町山口平八、梅村元一、中津軽郡新和村大字三輪の増田豊次郎の三名が重軽傷を負うという大事件になった。
この報を受けて戸井分署から署長山本八十八警部、巡査部長水野豊太郎、巡査田中松太郎が現場に急行し、汐首巡査駐在所結巡査千田秀穂及び被害者の電報により、函館警察署から刑事巡査川島褜治が駈けつけ、亀田分署の巡査部長鈴木千松は巡査三名を引率して現場に駈けつけた。
この頃ちょうど戸井村に出張していた検事中條庸も現場へ行って、蓼原予審判事の出張を要請した。
こうして下海岸始って以来ないような大捜査陣が組織され、捜査の結果七間善助と米沢梅蔵の二人が犯人であることがわかり逮捕したが、さて白戸秀吉を殺した犯人は誰なのか、暗夜の格闘であったので負傷した者も加害者が誰であるかわからなかった。
白戸秀吉の致命傷を鑑定した医師三留広田は、「白戸の致命傷はマキリではなくノミだ」と言ったが、なお疑問があり、解剖の必要が生じて、白戸の屍体を函館病院に運んで解剖に付した。解剖の結果、白戸秀吉の致命傷はマキリによるものと決定された。
明治四十三年五月三日、函館地方裁判所で七間善助は傷害及び傷害致死罪で懲役三年、米沢梅蔵は助勢罪によって懲役一年に処せられて事件が落着した。