建物その他の損害は約九一七〇円に達した。
出火の原因は、伊藤タミ(四〇才)が仏壇に蝋燭(ろうそく)をともし、そのまま外出したため、その灯が延焼したのである。
この火災の消火中、戸井村伊藤直次(二一才)及び戸井消防組第一部の消防手石田豊作の両名が火傷を負ったが、二人とも軽傷であった。
火元伊藤タミは失火罪として罰金十円に処せられた。
弁才町の大火 後藤 亀雄(明治三九年九月一五日生)談
大正四年、私はこの時日新小学校の二年生であった。何日であったか記憶はないが、二学期が始って間もない頃の木曜日ということは記憶している。朝礼が終って教室にはいり、第一時間目の授業は修身であった。
受持の奥先生が、その時間に学習する修身の教科書を読むことを私に指名した。私が朗読を終って着席すると、奥先生はあわてるようにして廊下に出て行った。
私たちは何で廊下へ出たか不思議に思っていると、間もなく教室へ戻られたが、奥先生の顏は青ざめていた。
先生は「急いで道具をしまって帰る仕度をしなさい」といったが、その理由は何も話さなかった。私たちは「何事が始ったのだろう」と考えながら、持ち物の整理をしていると「ガーン、ガーン」と半鐘を乱打する音が聞えた。私たちは「火事だ」と叫び、先生の指図で校舎の前に出て見ると、学校のすぐ側の弁才澗の人家一帯が煙に包まれ、真赤な炎が燃え上っていた。
その附近一帯は人家が密集していたので、忽ち次々と延焼し、道路も通れなくなっていた。そのうちに風が変り、学校にも火の粉が盛んに飛んで来た。
私たちは恐ろしくなって、ふるえていた。
高学年の生徒たちは、学校へ飛んでくる火の粉を消すために、自分の着ている「チャンチャンコ」を脱いで水につけ、校舎の外壁についた火の粉をたたき消していた。先生たちも皆、火の粉を消していた。
小さい生徒の親たちが心配して生徒を迎えに来た。私の母も迎えに来てくれたので、母と共に弁才澗から瀬田来までの山裾を通り、飛んで来る火の粉を払いながら帰った。その時の恐しさは、五十年以上たっても忘れられない思い出である。
後藤亀雄
「註」後藤亀雄は「大正四年」と語っているが、「大正三年」の記憶違いである。後藤亀雄が「受持の奥先生」と語っているのは、奥由太郎先生のことで、奥先生は大正三年六月十一日付で日新小学校に着任し、十ヶ月在職して、大正四年四月三十日付で離任している。即ち大正四年九月は日新小学校には在職していない。警察の記録は大正三年九月二十九日となっている。この時の校長は山田恭三先生で、着任三ヶ月目の事件であった。