三、〓小柳家(瀬田来)

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 〓 小柳家の先祖新右衛門は、享保年間(一七一六―一七三五)瀬田来に移住し、代々漁業を営み、吉友は九代目である。四代目までは新右衛門を襲名し、四代新右衛門に子がなかったので、同村の漁業家石田藤助の二男で文政七年生れの吉蔵を養子に迎えた。
 四代新右衛門歿後、吉蔵が五代目を継いで家業に精励し、安政三年妻トヨを迎えて、安政五年(一八五八)十月十五日長男吉太郎が生れた。
 吉太郎の幼ない頃は、家が貧しかったので、吉蔵は村内の漁期には昆布漁、鰮漁に精励し、地元の漁閑期には後志方面の鰊漁場に出稼ぎに行き、年中暇なく働いたのである。
 吉蔵は我が子吉太郎の幼ない時から、漁撈のことをいろいろ教え、明治七年(一八七四)吉太郎十六才の時から後志の古宇郡盃村、興志内村等の鰊漁場へ連れて行って、漁撈の体験を積ませた。こうして吉蔵は長男吉太郎と共に骨身を惜しまず働いて漁場経営の資金を蓄え、村内で鰮網を経営するようになった。
 幸運にも毎年鰮の大漁が続き、次第に資産を増して行った。小柳家の基礎を礎いた吉蔵は、明治三十二年(一八九九)七十六才で隠居し、長男吉太郎に家督を譲(ゆず)った。この時吉太郎は四十二才の壮年であった。
 吉太郎が六代目を継いでから、老父と相談して漁場を拡張したが、運よく明治三十三年、三十四年と大々漁が続いて忽ち巨萬の富を得たのである。
 明治三十五年と三十九年は薄漁で、漁場経営のために、一時多額の負債を背負って苦慮したが、明治四十二年から大々漁が連続し、不漁時代の負債を全部返済してもなお巨万の富を蓄えた。
 明治四十二年、汐首村字ナガトロの漁場を一万二千円で購入し、更に数千円を投じてナガトロに袋澗を造った。この袋澗は吉太郎が父吉蔵と共に後志地方の鰊漁場に出稼ぎに行った時に見たものを参考にして造ったもので、この地方の袋澗の始であった。
 〓小柳家の袋澗設置に見ならって、大正三年〓石田家、大正五年〓吉崎家、大正七年汐首の〓境家、大正八年〓西崎家、大正十二年〓吉崎家などの各網元が瀬田来から汐首までの沿岸に次々と袋澗を造ったのである。
 〓小柳家の基礎を磐石にした吉蔵は袋澗のできた翌年、明治四十三年三月三十日、八十三才の長寿を保って長逝した。
 吉太郎は又従来一般に使用されていた鰮釜に欠点が多かったので、種々研究の結果、改良釜を開発し、この釜が一般に使用されるようになった。
 吉太郎は家業に精励すると共に、公共のことにも力を尽した。大正元年(一九一二)以来第四部長に推され、亀田水産議員等に挙げられ、漁業界や公共のために貢献し、賞状、表彰状、木杯等を授与されたことは枚挙に暇ないくらいであった。
 こうして吉太郎は巨万の富を残し、功成り名遂げて、大正十四年(一九二五)三月二十八日、六十八才で長逝した。吉太郎の妻ソノは、尻岸内村〓家より小柳家に嫁し、夫吉太郎を助け、内助の功が大きかった。ソノは昭和十三年(一九三八)一月二十五日、七十六才で死去した。
 長男熊太郎は父母に先だち大正五年(一九一六)九月二十日腸チフスにかかり僅か三十一才で死去した。熊太郎の妻リサは昭和四十二年(一九六七)六月二十九日、七十七才で死去した。
 熊太郎の長男一正(かずまさ)は、は日支事変に召集され昭和十四年(一九三九)七月十八日、北支に於いて戦死した。享年二十八才、一正の妻キヨは汐首の〓境家より小柳家に嫁し健在である。