五、〓池田家(泊町)

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 〓池田家は、〓池田家の分家である。〓池田家の先祖が戸井に移住した年代は不明であるが、戸井に移住した初代から数代を経て八五郎に至った。
 明治十三年(一八八〇)年、八五郎の弟叶次郎が三十七才の時、戸井村字横に分家し、〓を家号とした。分家した叶次郎は、妻ハナと協力し夏は昆布をとり、昆布取が終れば、沿岸の魚介類をとったり、出面仕事をしたりして、細々と生計を立てていた。
 叶次郎は、漁業資金を蓄えて、鰮網を経営して小漁師の境涯を脱しようという志を立て、益々勤勉に働き、質素倹約につとめること数年、漸く希望を達することができたのである。
 叶次郎と妻ハナとの間には男子がなく、明治二年生れの女子ツネ一人より子がなかったので、明治二十七年(一八九五)同村の漁業家〓伊藤重右衛門の二男浅次郎をツネの聟養子に迎えた。この時浅次郎は二十一才であった。
 鰮の大漁が続き、家運が隆盛に向い、資産もふえて鰮漁場も拡大し、浅次郎を後継ぎに迎えて、これからという時期の、明治三十一年(一八九八)八月二十八日、浅次郎を迎えて僅か四年後に、五十一才の若さでこの世を去ったのである。この時浅次郎は二十五才であった。
 僅か二十五才で〓家の当主になり、鰮漁場経営の重責を負うことになり、始めのうちは当惑したが、妻ツネの内助、義母ハナの励ましや助言、更に浅次郎の実家である〓伊藤家の協力後援によって、義父叶次郎の残した漁場の経営に専念したのである。
 浅次郎が後をついでからも、運がよく毎年のように大漁が続き、十数年にして村内屈指の大資産家になった。
 浅次郎は資性温厚廉直な人で、年若くして村内のいろいろな公職に挙げられ、多額の私財を公共のために寄附し、敬神の念に厚く、宮川神社の総代を勤めること十五年、神社新築には一〇〇円を寄附し、神社の基本財産中に、二千有余円を寄附した。
 大正二年浅次郎が四十才の八月、同村内の〓谷藤岩太郎ら三人の乗った鰤釣(ぶりつり)漁舟が、高浪に襲われて、沿岸で転覆し、遭難寸前のところを、単身磯舟を乗り出して救助した。
 浅次郎の献身的な行為とその勇気に対して、第十四代北海道庁長官俵孫一から賞状並に木盃が授与された。浅次郎は昭和二十二年(一九四七)一月二十九日、七十四才で病歿した。
 義母ハナは大正十三年(一九二四)一月四日、七十五才で死去し、浅次郎の妻ツネは昭和三十年(一九五五)二月六日、七十七才で病歿した。
 浅次郎とツネの間に五男あり、長男久太郎は早世し、次男久蔵が浅次郎の後をついで現在に至っている。三男叶、四男浅男、五男秋男はそれぞれ分家している。