七、〓金沢家(泊町)

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 鰮大漁時代に栄えた〓金沢家の先祖は、下北郡川内村から戸井に移住し、現在まで七代続いているが、代々藤吉を襲名している。
 初代藤吉、二代藤吉時代までは、貧しい農家で、農耕によってその日を糊(のり)するという状態であった。初代藤吉が戸井に移住したのは、今から一八八年くらい前と推定されるので、天明三年(一七八三)頃である。天明三年から二、三年の間は、津軽・南部が未曽有の大飢饉(ききん)に襲われ、餓死(がし)した人の死屍がルイルイと道に横たわり、飢餓(きが)の民が食を求めて、さ迷い歩き地獄の様相を呈した時代である。
 飢饉の時に、食を求め一村こぞって村を逃げ出すことを津軽、南部の人々は「地逃げ」といっていたが、川内村の「平所(ひらどこ)」という部落は、天明の飢饉の時に全部北海道に「地逃げ」したと云えられている。金沢家の初、二代藤吉はこんな目に遇って戸井に来たので、貧苦はさして気にかけなかったのである。
 初代、二代が歿して三代藤吉の時代になった。三代藤吉は、奇略縦横、非凡な才能を持った人で「百姓をやっていたのでは、一生うだつ(・・・)があがらないだろう。漁業に転向して産を成そう」と決意して、父祖以来の百姓をやめたのである。然し資金がなければ、一生小漁師で終るだろうと考え、人の遊んでいる時も勤勉に働き、取った魚は一匹も無駄にせず、採った昆布は一本も無駄にしないようにしてこれを売り、粒々辛苦して資金を蓄え、ようやく差網(さしあみ)を経営するようになったが、これからというところで病歿した。
 三代藤吉の歿後、長男が藤吉を襲名して四代目を継いだ。四代藤吉は父の遺志を継ぎ、父の果せなかった夢を実現して、その霊を慰めようと決意し、漁業経営の惨憺(さんたん)たる苦労、努力の激しさは言語に絶するものがあった。漁閑期には、出面(でめん)仕事をして、人の使役(しえき)に甘んじ、又漁師にも学問の必要なことを痛感し、余暇には読書に励み、次第に学識を蓄え「苦あれば楽あり」という諺を信じて働き続けたのである。
 慶応元年(一八六五)六月十日、後の五代藤吉が生れたが、四代藤吉は教育の大事なことを知り、幼ない時から勉強させ、明治十年(一八七七)五代藤吉が十三才の時、函館の学校に出し、生活の苦しい中から四年間学費を続けた。五代藤吉が学校を卒業するとすぐ、四代藤吉は十七才の息子を連れて、厚岸の小鰊漁場へ出稼ぎに行って、鰊漁業の体験を積ませた。
 このようにして父子協力して漁業に精励し、次第に産をなし、三代藤吉の夢を実現する日も近いと思われたが、不幸にして四代藤吉は、明治二十八年(一八九五)六月二十八日に病歿した。この時五代藤吉は三十一才であった。
 五代目を継いだ藤吉は、祖父と父の二代で果せなかった夢を自分の代で実現させようと、父の生前にもまして奮斗努力した。父の死後二年目の明治三十年(一八九七)厚岸に小鰊漁業を経営し、翌明治三十一年(一八九八)瀬棚郡美谷(びや)に鰊漁場を経営し、又戸井では鰮漁の外に鮪(まぐろ)漁に着手したが、厚岸、美谷、戸井いずれも大漁が続き、やることなすこと、すべて順調に行き、五代目を継いで以来十数年にして巨萬の富を築き、下海岸屈指の大資産家になり、父祖の遺志を貫徹(かんてつ)したのである。
 当時五代藤吉は、漁場数ケ所を経営し、宅地十数ケ所、家屋数十棟、畑地数十町歩を所有し、盛漁期に使用する漁夫は三百名を越えた。又四代、五代藤吉共に信仰にあつく、法泉寺の檀家として、この寺の経営費三千五百円を藤吉父子が負担した。
 こうして三代にわたって努力奮斗(ふんとう)し、五代藤吉の時代に実を結んだが、五代藤吉は惜しくも大正二年(一九一三)六月二日、四十九才の若さでこの世を去った。
 〓金沢家の墓碑銘に「明治四十四年四月、七代目金沢藤吉建之」と刻まれているのは「五代目藤吉」の誤であろう。この墓碑は五代目藤吉が死去する二年前に、自己の戒名を刻ませて朱を入れたものと思う。
 五代藤吉の歿後六代目も藤吉を襲名し、六代藤吉の時代も鰮や鮪の大漁が続いて資産を積み重ねた。
 六代目の歿後七代目も藤吉を襲名し、七代藤吉は戸井村議会議員、戸井漁業組合長その他多くの役職を長年勤め、道議会議員に推されて当選した。
 道議会議員をやめてから、一切の役職から身を引き現在函館市に転任し、悠々自適の生活をしている。