[町内墓地の概観]

1049 ~ 1053 / 1305ページ
 広い平野の中にある農村では、水田や畑地の真中に点々として部落々々の墓地があり、山村では部落のある所の山麓や山峡に墓地があり、漁村では部落々々の背後の、海を見渡せる小高い丘に墓地があるというのが、日本の村落の形態である。
 村々の墓地には、古い墓、新しい墓、大小様々、石質様々の墓碑が建ち並び、先祖代々の霊を祀っている。その村で生れ、その村で死んだ人も、他郷から移り住んでその村で死んだ人も、すべてその村の墓地に葬られたのである。
 その村に移り住んだ先祖から何代かの人々がその村で生涯を終え、それらの人々の霊が一基の墓碑に葬られたのである。又現在その村に墓はあるが、何代目かの子孫や一族が他郷に移住し、墓碑だけが残されているという一家もある。何れにしてもただ一基の墓碑には若くして死んだ人々、不幸な生涯を終えた人々、海難などで不慮の死を遂げた人々、度重なる戦争で死んだ息子、親、兄、夫などの悲しい思い出が秘められ、家々の栄枯盛衰の歴史が秘められているのである。
 墓地全体の墓碑の数、大小に注意し、一基々々の建立年月日や建立者を調べると、村々の栄枯盛衰の歴史を知ることができる。開村が古いのに古い墓碑のない場合は、昔家々が貧しくて石の墓を建てることができず、木の墓標を建てたものが、年月を経て朽ち果てたのであろう。昔栄えた家々の墓碑は、風化しないような岩石に銘を刻み、それが百年、二百年後まで残っている。
 一家一基の墓碑には、先祖代々の霊が祀られ、分家して死者が何人か出ると、その家の墓碑が建てられ、時代を重ね戸数が増加するにつれて墓碑の数も増加する。然し新しくその村に分家した家は墓を持たず、又墓の持主がその村に居住していない場合などもあり、墓の数はその村の戸数の二分の一か三分の一というのが普通である。
 然しその村で死んだすべての人々の霊は、その村の墓地に永遠に眠っているのである。その村の墓地は、その村で死んだ人々の霊の安息所であり、居住地である。墓地は、家々の歴史を秘め、その村の草創から現在に至るまでの歴史を物語る場所である。
 石で墓をつくることのできなかった昔の貧しい人々は、木の墓を建てたり、小さな自然石を墓地に建てて墓標とした。何代か後に子孫が繁栄すると、その墓地に石の立派な墓を建てる。立派な墓碑の建立年月日と建立者の名を見ると、その時代に、その人が生存していた時に、その家が富み栄えたことがわかる。日本人には立派な住宅を建築すると、次には必ず立派な墓を建てるという習慣がある。
 村々の墓地の墓碑に刻まれた建立年月日を調べて見ると、その村の草創の新古を知ることができる。然し草創が古くても、村人が貧しくて石の墓を建てることのできなかった時代が長く続いた村は、殆んどが新しい墓碑である場合も多い。その村や近隣の村に石工がいなかったため石の墓を建てられなかったという場合もある。石の墓を建てることのできる時代まで、木の墓や文字も刻まない自然石を建てたということは、村々の墓地の原始時代の姿である。

〓西崎家の墓碑(瀬田来)

 年に一度のお盆には、その村に墓を残して他郷へ移住した人々も、勉学のため都市へ出ている学生も、都市に就職している人々も、他郷に勤めている公務員も、出稼ぎに行っている人々も、すべて故郷に帰り先祖や一族の霊の眠る墓にお参りをする。村々の墓は一家一族団結親睦の中心になっているというのが日本の習俗である。そして村々の墓地は部落の団結親睦の中心でもある。墓地のある部落には必ず氏神を祀る神社が一つあるというのが日本の村落の形態である。
 戸井町の墓地は東部から小安、釜谷、汐首、瀬田来、館町、鎌歌(二見)原木の七ケ所にあり、すべて高台にあり、原木の墓地を除いてすべて津軽海峡を一望できる場所にある。そして墓地のある七つの部落に氏神を祀る神社が建てられていた。昭和の時代に鎌歌の神社が宮川神社に合祀されてからは鎌歌の墓地には新しい墓碑が建てられず、古い墓だけが残っている。
 全町の墓碑銘を調べて見ると、明治以前の年号の刻まれている墓碑は、鎌歌、汐首の墓地に僅かあるだけで、それも文政、天保年代の物故者の銘が最も古い年号である。全町の墓碑で明治、大正の年号の刻まれたものも極めて少ない。明治、大正、昭和の初期までに建てられた荘大な墓は、鰮、鮪大漁時代の網元が建てたもので、殆んどが広荘な住宅や倉庫を建築した後に建てたものである。昔の網元の住宅と墓によって、鰮、鮪大漁時代の繁栄を想像することができる。
 全町の墓地の殆んどの墓は、昭和四十年以降に新らしく建てられたもので、これは出稼ぎが増加し、漁期には村々で漁業に従事し、漁閑期には出稼ぎをし、家々の収入が増加し、経済的に安定し、競うように住宅を新築改築するようになってから、新しい墓を建てたのである。
 墓の建てられた年代と墓の規模(きぼ)を見ると、その村とその村の家々の経済状態を推定することができる。
 墓をつくっている石質は種々あるが、安山岩でつくられたものが多く、花崗岩のものも若干ある。汐首の墓地の墓石は殆んど、汐首石で有名な汐首産の輝緑質(きりょくしつ)安山岩である。隣部落の瀬田来の墓地にも、古い墓は汐首石のものが多い。然し最近建てられた墓碑で汐首石で造られたものは殆んどない。
 又各墓地の墓碑には殆んど屋号と姓が刻まれているので、同姓の墓の家はその屋号を見ると、その一族であることがわかる。例えば瀬田来から浜町にかけて多い石田姓の総本家は〓石田家なので、石田姓で〓、〓、〓、〓、〓、〓などの屋号の刻まれている家は、〓石田家の分れであることがわかり、宇美姓の総本家は〓宇美家なので〓、〓、〓、〓、〓、〓などは〓宇美家の別れである。墓を見ても昔網元であった総本家の墓の規模は大きい。小安の墓地に多い関谷、吉田姓の刻まれた墓なども〓石田家、〓宇美家などと同じ例である。家々の系図もなく、何代かを経て子孫が同姓の家との親戚、縁戚関係を忘れてしまっても、墓碑に刻まれた姓と屋号が親戚、縁戚の関係を永久に物語っているのである。各部落の墓地と墓碑は死者の歴史を秘めているばかりではなく、家々の連がりや村の歴史、家々の沿革を物語るものなので、郷土史を調べる一つの資料である。
 又全国の市町村の墓地に見られるように、戸井町の墓地にも日支事変、太平洋戦争などの戦死者を供養するために戦死者の親、兄弟、妻などの建てた荘大な墓碑があり悲惨な戦争の名残りを止めている。
 記録の少ない戸井町では、いろいろなことを物語っている墓碑銘は貴重な郷土史資料であると考え、町内七ケ所の墓地の墓碑銘を写し、屋号と姓、建立年月日と建立者氏名を記録したが、古い墓碑には建立年月日や建立者氏名の刻まれていないものが相当あった。