神護景雲二年(七六八)安達の小連(こむらじ)という若者が、故あって都から、この脇野沢に流され、ここで暮している間に、蝦夷の酋長(しゅうちょう)の娘の聟(むこ)になり、二人の間に、世にも稀な美しい女の子が生れた。
延暦二十年(八〇一)征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷を征伐するためにこの地へ来た時、安達の小連が田村麻呂の陣に馳せ参じ、蝦夷討伐の先陣を承って殊勲(しゅくん)をたてた。田村将軍はこの地を「鬼伏(おにぶせ)」と名づけ、蝦夷たちを宣撫(せんぶ)した。田村将軍及び将兵は、軍船の修理などをしながら、船出の日和を待って半年余りもこの地に滞留(たいりゅう)した。
その間、安達の小連の娘が田村将軍に仕え、その寵愛(ちょうあい)を蒙って懐胎(かいたい)した。
やがて出航の準備も整い、田村将軍の帰京の日が近ずいた。将軍は小連の娘に、玉中観音の像を記念に与えて別れようとしたが、将軍を深く恋い慕う女は「都まで供をさせて下さい」と、泣いて歎願した。父の小連は娘の心境を察して不憫(ふびん)に思ったが「蝦夷との混血児を都へ連れて行ったら、田村将軍も困るだろう」と考えて、娘を説得したが、どうしても納得(なっとく)しなかった。
田村将軍も小連も困り果て、田村将軍はいつわって、「それでは都へ召し連れよう」と女に言った。いつわりの約束とは知らない女は大そう喜び、「今日の何刻(なんどき)に出帆する」というその時刻に、都への旅装を整えて陣営に行った。ところが陣営には、田村将軍を始め人一人居らず、女が驚いて付近の漁師に尋ねると、「日和(ひより)の模様で予定の時刻よりも早く船出(ふなで)した」という。
女は気も動転(どうてん)するばかり驚き、沖を見ると、多くの軍船が順風を帆一ぱいに孕(はら)んで、沖合はるかに遠ざかっていた。女は始めてだまされたことを悟り、泣き叫んで半狂乱となり、海に身を投じたが、漁師たちに救い上げられた。
これ以来、女は毎日毎夜泣き続けていた。小連と妻は娘に「あきらめるように」と言い聞かせ、慰めたが、娘の悲しみは止(や)まなかった。
やがて月満ちて女は三つ児を生んだが、なおも将軍を恋い慕い、夜となく昼となく、浜辺をさ迷い歩き、港を出帆する船があると「都へ連れて行ってくれ」と、船人たちにすがって泣いた。
女はこのようにして毎日々々泣き狂い、やがて病の床に訃し、哀れにも、みどり児を残して死んだのである。小連夫婦始め村人たちは、女の死を哀(あわれ)み、沖行く船のよく見える鯛(たい)島に手厚く葬った。
女を葬ってから、鯛島の近海には怪しいことが絶えず、鯛島の附近で、竜神の荒れ狂う姿を見たという船人が何人もあって、その話が広まり、人々は「女の霊が毒蛇に化して崇(たた)りをなすのであろう。恐しいことだ」と言い合った。このあたりを航行する船の船人たちは、女の崇(たた)りを恐れ、帆げたを少し下げ、鯛島の女の塚を礼拝して通った。
その後、建武の中興の政治に失望して、京都から姿をくらました南朝の忠臣、万里小路(までのこうじ)藤原藤房卿が、延元二年(一三三七)頃この地を訪れて、小連の娘の哀話を聞き、自ら天女の木像を刻んで、小連の娘の霊を祀る鯛島の祠に奉納して供養、祈願してから怪しいことがなくなったと伝えられている。
武井の島に似た鯛島(たいじま)