明治四十二年

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  漁業実態
・三月 下海岸地方より例年のように鰊場へ出稼者出発する。下海岸諸村から船便で函館へ向い、その後船頭や世話人などを中心として集団で列車に乗り込み、余市方面の漁場に向うのがこの当時の出稼コースである。
 この年の石狩・天塩方面の鰊漁は不漁であり、空しく五月はじめにそれぞれの村へ戻ってきた。
・四月十三日 落部場所鰊漁出稼船の救助。
 古武井・根田内の漁船六隻は落部場所へ鰊漁業のため十三日午前六時出発する。しかし急に西南の強風が吹き出し激浪甚しくなり、六隻中四隻はようやく椴法華村に着船、直ちに二隻の救助方を依頼する。この時この報に接した川森安之助は直ちに雇人夫十三名と鱈釣業者五名に協力を求め、救助船三隻を発進させ沖合に吹き流されていた古武井村斉藤吉五郎所有の持符船(数名乗組)と洞海船(六名乗組)を無事救助する。(明治四十二年四月十六日函館日日新聞)
・十月二十一日 椴法華尋常小学校、教室一及び廊下を増築する。
・十一月 函館鉱業株式会社赤井川硫黄鉱山の採掘を再開する。(明治四十年権利を借用する)人夫数人により露天掘りによって鉱山を採掘し三基の炉によって製錬する。
・この年、椴法華村、烏賊・鰮・鮪・大漁に恵まれる。
 烏賊--初期より八月末まで不漁であったが九月より十月下旬にかけて大漁となる。
 鰮---秋漁二千石約二万四千円の収入となる。(下海岸沿岸も大々漁)
 鮪---十二月三千石漁獲し二万四千円の収入を得る。
・十二月 函館より椴法華まで鰮大漁。
この時の様子を当時の新聞は次のように報じている。
 (要約)
 明治四十二年十二月十日 函館日日新聞
 なおこの年下海岸地域は鰮鮪の大漁に恵まれたため電信線がはなはだしく多忙となる。当時の様子を新聞は次のように記している。
 
    明治四十二年十二月十四日 函館日日新聞
     ◎近海豊漁と通信
   函館付近東海岸鮪及び鰮豊漁の為め函館・椴法華間の電信線は甚しく多忙を来し其の内戸井局最も繁劇を極むるを以て同局の應援として函館局より通信手渡生網雄を急派し助勢せしめつゝあれども猶も幅輳を免れざるときは、臨時電信回線を変更するの準備を整へ居る由なり。
 
・この年、押野常松、恵山硫黄の生産を始める。
・この頃、尾上松之助、通称『目玉の松ちゃん』の忍術・チャンバラ等の映画が大流行する。
・この年、国産レコード初めて出る。

昨日まで力印前田商店に達したる漁報