・四月一日 二級村制の実施
四月一日より椴法華村では二級町村制が施行されることになり、従来の戸長役場が廃止され新たに椴法華村役場が設置され、これに伴い戸長が廃され村長が任命されることになった。この時役場の建物は従来の戸長役場の建物が使用され、初代村長には大正六年十二月から戸長であった吉田慶太郎が引続き任命された。また同時に以前の総代人の制度が廃止され、代わって村会が設置されることになり、大正八年五月三十日、村民注目のうちに第一回椴法華村会議員の選挙が実施された。
このようにして実施された二級町村制であるが、内容的には道庁や支庁の監督権が非常に強く働くようになされており、執行機関を担当する村長の権限に介入でき、議決機関である村会に対し種々の制約を加えることが出来るように定められていた。また道庁は二級町村制の実施当初より行政体系の簡素化を図るため、小さな村々の合併を促進しており、明治三十五年四月一日の二級町村制実施以来全道の多数の村々の合併が行われていた。
我が椴法華村においても大正七年の項で記したように、古部と合併し村名を恵山村と改称、あるいは椴法華一村で村名を恵山村と改称して二級町村制を実施するように渡島支庁より道庁に対して上申されていたが、理由は不明であるが道庁の認めるところとはならず、椴法華村の場合は一村で村名も改めることなく二級村制が施かれることになった。
・四月 第七師団凱旋する。
大正七年十月シベリアで発生した事件に対処するため満州に駐屯していた第七師団が派遣されていたが、大正八年四月二十七日、函館に凱旋し町中が旗行列・提灯行列などでお祭りのような賑わいとなる。
・六月十七日 駒ヶ岳小噴火、二十四日再度爆発。
・六月 炎天と凶作。
六月から七月まで連日炎天の日が続きこのため大凶作となる。十一月インフレの傾向が続く中で、政府は保護貿易政策をとり、このため外米の輸入量が減少し米価はじりじりと上昇、更に生産者の売りおしみ、米業者の買いしめなどがかさなり、米価は暴騰し一升六十六銭となり全国的に米騒動が発生する。
・七月五日 御真影奉置所の移転改築が実施される。
・八月五日 小学校校舎新築落成(教室七・職員室一・小使室一)
・この年、椴法華村で初めて吉田によって一反歩の水田耕作が実施される。
・この年あたり、盛漁期のみ元村小谷作太郎により共同回漕店が営業される。
・この年、改造社から雑誌『改造』が発行される。菊地寛『恩讐の彼方へ』が発表される。