・二月一日 椴法華の郵便及び小包この日から騎馬にて逓送される。
・二月 椴法華村大雨に襲われる。
・三月三十一日 大沼、道立公園に指定される。
・四月 北海道会法が改正され従来制限を受けていた道会の権限が拡大され他府県と同水準となる。
・五月二十二日 駒ヶ岳小噴火(異常噴煙を見る程度)
・六月七日 汽船鉱運丸磯谷において遭難する。
・七月八日 忠魂碑建立
・八月一日 函館市制施行、(函館区より函館市となる)
・八月一日 函館支庁を渡島支庁と改称する。
・この頃の経済状況。
欧州大戦が終りヨーロッパの各種産業が回復するにつれて、日本は反動不況に悩まされることになった。すなわち第一次世界大戦中英・米・仏は軍需物資の生産に追われ、他産業にまで手がまわらない状態であり、日本はこの間隙を縫って鉄・石炭・農産物等において大いに利益を上げていた。しかし大戦終了後徐々にヨーロッパの生産が回復して来るにつれ、日本の輸出は次第に不振となり、大正十一年頃にはこれらの諸産業は、かつての繁栄が夢であったかのように全く振わなくなった。このため巷(ちまた)には失業者があふれ、労働争議が活発化し、こうした中で物価は低落の傾向をみせ、庶民の生活を窮乏の渕に追いやることになった。
・この年、椴法華村では、鰮漁普通・烏賊漁最初大不振、十一月末ようやく豊漁、鱈漁豊漁となる。
当時の新聞は烏賊漁・鱈漁の有様について次のように記している。
大正十一年十一月二十六日 函館新聞
柔魚と鱈の大漁
発動機で東北・東京へ
漁夫のポッポの大入
ちょっと鰮は見えぬが、夫れでもまだ漁期の冬至までは時日がある。夫れよりは今の處では近海の柔魚が大漁、鱈も可也いい景気である。昨今の椴法華方面の模様を聞く。
――柔魚は小賣相場で十銭に十七八尾、ソシテ餘り沖へ出ずに釣れるより大謀網で収穫(とる)のだから一種の奇観である。その大謀網網毎朝十五六万から廿万尾と云豊漁夫れかどう處分されて居るかと云へば多く生で取扱はれ、發動機で青森と東北筋一帯の地へ出るのと、遠く東京方面へ出て行くのだからイカニ値段が安くとも販路が拡い丈に
品物が金嵩(かさ)になって意外の大福々、従って柔魚漁に従事した漁夫も、切揚までには一人當り四五百圓の金が握られようと、シカモ気候はあたたかく濡(ぬれ)手で粟(あわ)を摑むようなもの、いい正月が出来る又鱈漁も毎日發動機船で四五十束(一束二十尾)の漁獲がある。コンコロ川崎船で二三十束もとれる値段は例年に比べると半値段引合はぬと云はいふものの不漁より結構、これも漁の切揚げには、船頭が千五六百圓の収入があろう。
この新聞記事をこのまま信ずると、大へん豊かな暮しが出来そうであるが、本当の処、一般漁家の生活は困難なものであった。
即ち大謀網や発動機船を所有出来るのは限られた親方衆であり、一般の零細な漁民は、磯船か大きくても川崎船ぐらいしか所有できず、その漁獲高は大謀網などに比べると非常にわずかなものであった。また大漁のため漁価が安く、従って収入は頗ぶる少ないものとなっており、この記事のように高収入を得た者は大規模経営の親方とその一部関係者だけであったようである。
大正十一年の椴法華村の一戸当りの収入はわずか五百八十円という有様で、これは大正二年から十三年までの実質的な意味の最低収入となっている。
村行政担当者はこうした不況をなんとか乗り切るため、村民に対する各種負担の軽減・財政の緊縮・住民生活の改善・民力の涵養などを図るべく努力していた。
・この年、「靴が鳴る」・「雀の学校」・「曼珠沙華」などの歌が流行する。