昭和六年

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 この年は昭和の初めより打続く不景気と満州事変勃発前後の緊張した空気に満ちていた一年であった。
 
◇不況の有様
 一月渡島町村長会議で渡島の農漁村の不況対策について協議されたが、これと云った対策もなく六月には渡島管内の町村納税滞納三十三パーセントにも達するような有様であった。
 椴法華村でも数年続きの不景気のため、民力は極端に低下し春から出稼者が多数出現し、漁業出稼ばかりでなく普段は行かない硫黄採掘や道路工事用人夫として、男女共に出かける風景が見られたということである。
 「九月十八日満州事変勃発、十月渡島管内作況、三分作以上面倒、降霜でもあったら一大事、十二月渡島地方不作・不漁に見まわれ、町村の欠食児童漸増の傾向を示す」(函館毎日新聞の見出しから)という有様で椴法華村ばかりでなく、渡島全体がどん底生活を余儀なくされていた。
 
◇満州事変勃発の前後
・昭和六年九月四日より九日まで、津軽海峡攻防演習
・九月十八日 満州事変勃発し、村内に異常な緊張感がみたぎる
・十月五日 敵艦近づくの想定のもとに、恵山方面で砲撃及び海陸攻防演習が実施される。(この日は五日間演習の最終日)
 その他道内各地から旭川第七師団への入営の新聞記事が多数見られるようになる。
 これらのことを通じてこの年満州事変を契機に、非常体制に対する準備が着々整え始められていることが知られる。次にこの時期に椴法華村からも第七師団に入営者があったが、当時の新聞により様子を記すことにする。
 
    昭和六年一月十五日 函館日々新聞
     椴法華より
   現下の時弊(じへい)に自覺したる本村青年團にては分會女子青年團及其他各種團體の後援並に村有志の賛意を仰ぎ慈(ここ)に虚禮廢止の一端として、各自團員持ち寄りの料理を以て一月三日元始祭(げんしさい)を卜し本年旭川第七師團各部隊へ入營すべき佐々木清君、川口誠一郎君、川口長作君及既(すで)に除隊歸郷せる中村岩雄君外五名の歓送迎會を午後五時より椴法華クラブに於て催せり、開宴に先だち一同起立發程式擧行赤塚社掌修祓をなし後祝詞(のりと)奏上(そうじょう)す。入營兵除隊兵の禮拝ありて式終了す次に満場の拍手裡に、三石青年團長の開宴の挨拶(あいさつ)ありて後菊地村長の祝辭(しゅくじ)、藤枝分會副長の祝辭並に越崎青年團第二班副長の祝辭等ありて後入営兵代表川口誠一郎君除隊兵代表中村岩雄君の謝辭(しゃじ)あり後菊地村長の發聲にて天皇・皇后両陛下の萬歳三唱ありて後團員持ち寄の山海の珍味により配膳をなし、其間不馴(ふなれ)な役員諸君の熱心なる斡旋(あっせん)ありて餡餅(あんもち)・ソウメン等に舌鼓(したつづみ)を打つ来賓團員共に興入り宴(えん)酣(たけなわ)なるや各自慢の隠し藝に花が咲き立錐の餘地なき盛況を呈(てい)す、入營兵・除隊兵の萬歳場内に満つ和(わ)氣靄靄裡(あいあいり)に散會せるは八時なり