昭和二十六年・椴法華避難港充実の年

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・一月十九日 政令第四号により椴法華港が避難港に指定され、更に三月十日運輸省令第十三号によっても避難港に指定される。
 恵山沖は古くから漁類の豊富な魚田で、道内及び本州各地からの漁船の集中する所であり、同時に本州各港と北海道の大平洋岸を結ぶ重要航路であった。しかし五・六月は海霧が発生しやすく、また冬季は風浪が激げしいため遭難船が出やすい海域でもあった。このようなわけで恵山沖に極く近い椴法華村に避難する場所が求められるようになり、戦前より何度も何度も陳情が繰り返えされた結果、避難港に指定されることになったものである。
・一月三日 NHK第一回「紅白歌合戦」がラジオで放送される。
・五月九日 津軽海峡に浮遊機雷が出現し、青函連絡船の夜間運行が休止される。
 この時椴法華の漁師達は、そのうちに椴法華の沖にもきっと流れて来るだろうなどと云って、夜の「いか釣」を恐れる者もあったが、いかが釣れはじめると夢中になり、そんな恐ろしさなど全く忘れてしまったとのことである。なおこの年夏いかは大漁で、「はねぐ」片手に一人で一晩に最高六十貫も釣った者もあったと云われている。
・七月 北海道開発局発足
・十月一日 函館海上保安部椴法華室署開設される。(別名椴法華ライフ・セービング・ステーション)
 
  ※椴法華分室開設の背景
  昭和二十五年、尾札部より日浦に至る海域での遭難船は八十七隻、一千二百四十九屯、行方不明四十七名というような実態であり、この地域の住民から一日も早く救助艇の配置を望む声が高かまっていた。遭難船が多い理由は、戦後の物不足無い無いづくしの中での出漁であり、船体・装備は貧弱で間に合わせが多く、且つ生活資金を得るために多少無謀な出漁もあり、その上に恵山沖の厳しい自然条件が襲いかかったなどによるものである。
 
・十月十八日 襟裳沖の地震により、南部(椴法華村字元村)の水道用湧水が減少し、十月末には約半分となる。
・十一月一日 椴法華中学校独立校舎新築工事、浜町百五十一番地に起工する。
 中学校の建設前は一面の湿地帯であり、ススキやキツネカヤなどが群生しており、先ず排水路を掘りそれから付近の小丘を切り崩して土を入れたが、トラックやブルドーザーなどなく、全て人力により人夫のほか、村民・中学生などの力を借りて整地がなされたと云われている。また新設校舎の頃は水道設備がなく、水汲みが給仕さんにとって重要な仕事であったと云われている。
・昭和二十六・七年 恵山沖の「いか釣」ピークとなり以後次第に漁況不良となる。
 またこの頃から一本の元糸に数十本の擬似針を付け腕力で操作する漁法がとられはじめる。