このようにして箱館地方及び蝦夷地の引渡しを受けた箱館裁判所は、民心を安定させるため、次のような布達を発している。
箱館裁判所触書留
此度徳川氏政事をかへし奉り、島々の果まで悉く天子様の御直支配に遊ハ(ママ)され、当所ニも裁判所御取建相成候、其御総督様と申奉るは、皆々在知の通、天子様の御そはにあらセられ、申すまでもなく尊き御方ニ候得共、是迄と違ひ、民百姓のことくあわれみしたしく被レ成、御威光かましきことハ、不レ被レ成、町人百姓浦人まて安楽に渡世いたさせ此土地繁昌して、都の様に被レ成度思召に候ゆへ、下々迷惑のことハ何事によらす、恐れはばからず申上候ハ、忽チ御吟味被レ為レ有、からき目に逢候者ハ御救ひ被レ下候ゆへ、御法度をかたく相守り、ねがいことするにも役人共へ聊にても進上ものなといたすまじく、是を賄賂といふて軽しめることに相当り、別て宣しからざることにて天子様よりも御禁制の事に候、此等の趣総督様深き思召を以て、被二仰出一候ゆへ、あつく相心へ候様申渡候なり。
慶応四辰年閏四月 箱館裁判所
この触書は徳川幕府から明治政府に政権が交代し、これにともなって諸改革が一度に行われたため、民心が動揺しておりこれを安定させる目的で、箱館裁判所から出されたものである。
このようにして明治新政府の地方行政機関である箱館府によって、当地方は治められるようになったが、旧幕臣榎本、大鳥等の箱館地方侵入によって引き起された箱館戦争のため、十月には清水谷総督の箱館府は青森へ逃がれてしまい、箱館府が再度村々を治めるのは戦争が終決した後の明治二年五月十九日以後のことであった。