江戸時代末に漁獲された鰮のほとんど総べては、鰮〆粕として製造されているが、その理由は本州における農業技術の進歩に伴い、魚肥の需要が増し、〆粕として製造することにより輸送や保存に都合がよかったからである。鰮〆粕の他には干鰮(ホシカ)・鰮油などの製品も製造されていたが、文化四年(一八〇七)頃の『松前産物大概鑑』(村山伝兵衛が松前奉行所に提出した報告書の控)によれば、鰮製品について次のように記されている。
鰯之部
一、干鰯、壱俵、目形拾三貫目入
是ハ網引仕候を基儘干上ケ、小莚ニ而ホシカ莚ト唱ヘ有之候小俵造リ之立ニ御座候。
一、鰯〆粕 直段 [砂金拾匁此錢六貫文ニ付]目形五拾壱貫匁位
是ハ釜ニ而煎絞リ候粕干上ケ、弐釜ニ而弐拾貫匁入壱俵之見積リ、十釜ニ而油四斗入壱挺之積リニ御座候。
一、鰯 油 直段 四斗入壱挺ニ付 [砂金五匁七歩位此銭三貫四百廿文]
是ハ当時下落之直段ニ御座候。