当時の動力機関は、電気着火、あるいは焼玉エンジンがその主たるものであり、乗組員は電気着火の動力船では数人、焼玉エンジンのものでは十数人であった。
また操業の方法としては、大正時代と同じように投錨操業が主流であったが、動力船の出現により漁業海域は拡大され、好漁の予想される水面に比較的に容易に進出できるようになった結果、次第に漂流操業をする船が多くなってきていた。
その後、昭和十二、三年頃から無動力船は少しずつ減り始め、代って動力船の増加、漁法の改善・本州方面からの漁船の進出なども見られるようになったが、これも二、三年間のことで、大戦の勃発により漁船の夜間航行の制限・漂流操業の禁止、燃料(油)の配給制などのため、増大しつつあった烏賊の漁獲量は、昭和十七年から二十年にかけて減少を余儀なくされるような状況であった。
漁獲高 昭和九年渡島支庁管内水産業概要より作成
椴法華村の柔魚釣漁業従漁船数
椴法華村 スルメとイカの産高