昭和三十年頃の烏賊漁業

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 烏賊漁業は、昔ながらの「ハネゴ」(ハネグ)や「トンボ」そして新しく連結式が使用されはじめており、椴法華村では小型動力船(焼玉エンジン)又は磯船が使用されていた。
 小型動力船が使用された場合、普通「釣子」(乗り子という時もある)を乗せたが、この場合、船主は船・油等を提供し「釣り子」は自分の釣具を持って船に乗り込み、漁獲物の三割五分を船主、六割五分を「釣り子」と分けるのが習慣であった。またこの他に、機関士や船長が雇われた場合、船主から固定給が支払われたり、大漁の時など「釣り子」から幾分かの現物がおくられることがあった。
 この頃船頭の感や漁師の腕(うで)が大切にされており、よき船頭や「釣り子」を確保することが、船主の必要条件とされており、毎年ほぼ同じ船に同じ人間が乗り込んでいたと云われている。
 またこの頃の漁師は、一年中村内で漁業に從事する者もあったが、若者達などは春になれば、北洋漁業・ニシン場・南氷洋の捕鯨、その他造林・炭鉱などに出稼し夏から冬にかけて、烏賊釣り・昆布取りその他に従事する者が多かった。
 
    参考(戦後開発された烏賊釣具)
   『イカ漁業とその振興策』(大島幸吉著)
  一、連結式釣具(鈴蘭針)
    図の如く鉛・真鍮線をプラスチックで覆った沈錘に、左右各五本の釣針を連結した人造テングスをつけイカの遊泳層に沈下しイカがかかると直ちに引上げ片手で最下端の針を握り全漁具を逆にするとイカが外れる。
  二、浅利式釣漁具
    八戸市浅利氏の考案で木製の柄に真鍮線の二腕をつけそれに連結式の場合と同様に左右各五本の釣針をつけ最下端の下方に更にテグスを延長し鉛の錘をつけたものである。漁具の操作には木柄で持ち釣糸を投入すると下端の錘によって釣糸は水中に沈み之を上下に動かしイカがかかった時には下端の針が船舷にくる迄引き上げる。此の際下端の錘による反動及び針が船舷をすって水中に沈むためイカは船上に落ちる。
  三、ゾロリ
    昭和二十六年頃から道南松前方面で考案されて比較的深処のイカを釣るに適し同地方沖合の海況に適当する故迅速に使用が普及されて居る。即ち一本のナイロン糸に数十本の針をつけ最先端に錘を附す。之を使用する時には船舷にローラー(クッパともいう)ものを備え付けるが良い。釣れたイカが船内へゾロリと落ちることからの名称である。
  四、三崎式動力イカ釣機械
    近年手釣りの代りに動力を以てすることにいろいろな考案があるが三十一年に実施されて有利なことを実証したのは函館市三崎誠一氏の考案で数年間の実験後三十一年秋に同氏所有の第三十大国丸(八十五トン)が北洋の独航船としてサケ・マス漁業から帰航するやエンジンから自動的に廻転するドラムにゾロリ式の二十五本の針をつけたナイロン糸を捲き付け海中に沈める。其のドラムの軸がエクセントリック(偏心)のために廻転が不正で手釣りのタグル調子がよく出る故よく釣れる。一人が此の錘糸六本を操作し片舷のみに十台十人の釣子で手釣の六十人分の働きが出来る。尤も釣り上げたイカを処理するために一人の釣子に二人の助手が要る(中略)
    斯る動力式漁具は近い将来に函館や八戸港の大型船(三十トン以上)多数に備付けられると思う。