烏賊漁業と教育問題

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 戦前の漁村では小学校を卒業すると、直ぐ漁師の手伝いなどをする者が多く、船に乗り組む者も多数あった。
 しかし戦後、新制中学校の義務教育制度や労働基準法、児童憲章が定められてからは、家の手伝いは別として、生徒を労働力として求めることは認められなくなった。
 自分の子供を一人前の漁師に早く育てようとする親たちや、一人でも多く働き手の欲しい漁師達は、新制中学校の男子を烏賊釣りに沖へ連れて行く者があり、また男女とも陸でめし焚き・烏賊さき・烏賊乾し・烏賊のし等の仕事を手伝うのが普通であった。
 このため小学校では出席率も成績も良かったものが、中学校へ入る頃から時期になれば烏賊釣りの深夜の手伝い、早朝の烏賊処理などの仕事により、欠席・早退・長欠などが多くなり、学校へ出てきても疲れ果てているため勉強にならず学力の低下が目立ちはじめていた。
 中には烏賊漁をしたからと云うわけではないが、出稼ぎに行ってきた若者などから、喫煙・飲酒その他の悪影響を受ける者が出てきていた。そして最も悲惨なものとしては、他村では出漁中の漁船から海に転落したり、船の遭難により生命を失う者さえもあった。
 このことは渡島地方の漁村がかかえる社会問題となりはじめ、村・教育委員会・船主組合・父兄・警察が協力し合い、中学生の烏賊漁船乗りくみは、次第にその数を減じていった。
 昭和二十五年九月十四日「いか釣り出漁生徒の対策協議会」が開催される。
 椴法華村では昭和三十三年頃に、たまに中学生が乗ったこともあったといわれるが、昭和三十七年頃では、ほとんど烏賊釣り漁船に乗っていく中学生は存在していなかった。

漁火