本村において銅が産出されることは古くから知られており、天明三年(一七八三)の『赤夷風説考』には、『エサンと申大山有、是は銅山にて硫黄・明礬の類も出候所也』と記され、これより約七十年後の安政二年(一八五五)椴法華村民三治郎によって銅山が開発されたらしい。現在鉱山の位置その他の詳細については不明である。
『北海道志』によれば、『椴法華銅鉱安政二年根田内村民三治郎開発シ後廃ス』と書かれているが、三治郎は根田内村民ではなく椴法華村民ではないかと推定する。その理由は、三次郎は(文字は異なる)後に明治時代に姓を認められ佐々木三次郎となるが、この人が昔銅山を開発したという云い伝えがあるからである。参考までに三次郎について現在判明している部分については次のようである。
嘉永七年(一八五四)椴法華小頭
安政二年(一八五五)八幡神社に鏡寄進
元治二年(一八六五)三次郎手船椴法華で難破する
三次郎江戸時代に硫黄を掘るの云い伝えあり。