日本第三位の採鉱量

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 ○谷村鉄山(東京郡・谷村清衛経営)
 日本国内の鉄の需要が高まるなかで、昭和十二年椴法華村字赤井川に鉄鉱石採掘の鉱区申請が出され同年認可となり、昭和十五年まで約三年間鉄鉱石の採掘がなされた。
 『総合経済調査報告書』によれば、昭和十四年の状況を次のように記している。
 
   谷村鉄山 (湯の峰)
  褐鉄鉱    三五-五〇%
  埋蔵量推定    六十万屯
  採掘能力    七千五百屯
  選鉱能力      三千屯
  生産量       二万屯
 
 不景気風と戦争の足音が強く聞かれる昭和十四年頃の社会情勢の中で、谷村鉄山は椴法華村民の生活安定に大へん寄与している。この谷村鉄山が閉山された場合、村はどのような対応策をとったらよいか、当時の村の理事者達によって真剣にこの問題について考えられていた。椴法華村には恵山硫黄鉱山をはじめとして、いくつかの鉱山が存在していたが、短期間ではあるがこれほど村民生活の安定に力を貸した鉱山は他になかったからである。
 次に昭和十四年九月、前椴法華村長上村浩太郎から新村長高柳良雄に引き継がれた『事務引継書』により、この当時の様子を記すことにする。
 
     引継演説書
    村現況
   昭和十一年迠ノ不漁連續ニ依リ民力ハ疲弊困憊シテ退嬰ノ一途ヲ辿リ居タル処昭和十二年以降烏賊・鱈・昆布等價格ノ昂騰ト相當ノ好漁ヲ見漸次更生ノ氣運ニ向ヒツヽアル折柄元村ニハ水無硫黄鉱山・湯ノ澤ニハ谷村製鉄工所ノ経営ニ依ル褐鉄鑛採掘事業勃興ニ依リ労力不足ヲ告ケ從來漁閉閑徒食ノ悪風アリタル村民モ非常時局ニ眠醒勢ヒ漁業ノ傍ラ就労スルモノ滋キヲ加ヘ昨今烏賊盛漁期ニ於テモ尚三四時間乃至五六時間鑛山労働ニ從事シ收入ノ増加ヲ計リツヽアルモノ鮮カラス本村漁業組合ニ於テハ毎年三月ヨリ十月迠ハ烏賊昆布ヲ目當ニ各組合員ノ大部分ニ米噌類ノ貸付ヲ爲シ來リタル処本年ハ組合員中鑛山労働ニ依ル副業的收入ヲ以テ現金購入ヲ爲スニヨリ一俵ノ貸賣モナサザル実況ニアリ此ノ鑛山事業ニ依ル毎月村民ガ間接直接ニ享有スル金額ハ五千円ヲ下ラズ優ニ一戸平均百円以上ノ收入ヲ受ケツヽアルノ狀態ニアリ特ニ本年ハ昆布ノ高價ニ烏賊ノ好漁加之其價格ハ空前絶後的ニシテ現ニ百斤九拾六円也、一梱約百五拾円見當ナリ如斯好況ノ際勤倹貯蓄ヲ励行セシメンカ必スヤ相當ノ実効ヲ擧揚シ得ルナラン。
 (中略)
     事前對策ノ要アルモノ
   東京谷村製鉄工所ノ経営ニ係ル湯澤鉄山ガ何時迠存続スルヤ本村ニ取リ極メテ重大ナル問題ナリ今後三年乃至五年後ニ突如廃鑛若クハ休山トナランカ村民ノ収入ニ多大ナル打撃ヲ與ヘ因テ失業生活ニ支障ヲ来スモノナキヲ保シ難シ、事前ニ之等ニ對スル救済及別途收入ヲ得ルノ對策ヲ講究シ置クノ要アリ。
   鉱石搬出量増加ノ方法トシテ『インクライン』ノ建設目論見中目下日本ニ於ケル鉄鉱石産額ノ多量ナルハ本道倶知安第一ニシテ第二ハ釜石、第三位本村湯澤鉱山ナル由ナレハココ當分ハ順調ナル発展向上ノ一途ヲ辿ルモノト認メラル几丈ケニ廃止休鉱ノ場合衝激反動モマタ大ナルコト想像ニ難カラス。
 
  なお故川口与吉談によれば、谷村鉄山の鉱山運搬について次のように語られている。
 
   絵紙山の北よりの急坂より、冬部宅の上の赤井川右岸約五百メートル上流地点までこの間約一キロメートルにインクラインを設置し平地はトロッコ運搬にて現在の寺崎宅下の貯鉱地へ鉱石を運搬し、更に貯鉱場から木橋を渡り船積みした。鉄鉱石の販売先は鶴見、室蘭であった。