昭和初期の商業

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 明治時代より続いてきた桶屋・木炭製造業などは、社会環境の変化により、大正時代の終り頃から徐々に姿を消し始めていた。また商店で取り扱う商品も次第に変化しつつあり、例えば婦人用品では、従来の留袖・長襦袢・丸帯・足袋・下駄などから、ドレス・スカート・絹靴下・短靴等も取り扱われるようになり、酒店では清酒・焼酎・ラムネなどから次第にビールやウイスキー・ブランデーなども売られるようになってきていた。
 その他屋根をふく職業を以前は柾屋と云われていたものが、ブリキ屋と云われるようになり、新商売としては数は少なかったが、蓄音器・レコード・ラジオなども販売されるようになった。(ラジオは昭和七年二月函館放送局開局後)
 このように商工業は時代の進展とともに、その呼び名ばかりでなく内容も変化しつつあり、商売も順調に発展するかに思われたが、昭和五年から同七年にかけて大不景気が庶民の生活に襲いかかったため、商店の売り上げは減少し、いっぺんに経済は冷え切ってしまい、せっかくの新商売も一時停滞するような有様であった。
(昭和五年)
 六月 海産株・生糸相場大暴落
 九月 米価大暴落
    この年椴法華村漁業不振
(昭和六年)
 一月 渡島地方農漁村不況のため納税成績低下
 六月 不景気のため渡島管内町村納税滞納三十三パーセント
 九月 満州事変勃発
    この年凶漁のため村内不景気
(昭和七年)
 五月 不漁不景気のためカムチャツカ方面へ漁夫として多数出稼に出る。
 十月 渡島支庁、凶作・不漁による食糧難の農漁民救済のため政府米払い下げ下調査を各町村に命ずる。
 このように昭和五年から同七年にかけて、椴法華村は大不景気の嵐の中にあったが、商業の状況はどのようなものであったろうか。
 古老の語るところによれば、大正時代から昭和時代の初めにかけて、椴法華村ではこまごました物は現金で、やや金額の大きなものや、米などは年末にまとめて払う慣習があったが、昭和の初めの大不景気には漁民も商人も全くまいってしまうような状況であった。すなわち漁民の中には三年続きの不景気のため、あすの米さえも買えぬ者が出てくるようになり、漁業組合の貸付米や公益質屋からの借入金により、やっと生活しているような有様の者もあった。こうした中で商人達の中にもまた仕入金にも困るような者もあらわれ、遂には店を家人に任かせ、主人みずから出稼に出る者さえもあったと云われている。

昭和初期職業別戸数 昭和四年