戦後の陸上輸送状況

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 昭和二十年、戦争は終ったが、車両の燃料の不足により、一般車両はほとんど椴法華村に来村することは無くなり、一時的ではあったが鉄輪(かなわ)の付いた馬車が、近隣地域との陸上輸送にあたる場面もみられた。また昭和二十一年三月には、函館乗合自動車により、一日一往復のバスが運行されるようになったが、代燃車(通称木炭自動車)であるため馬力が弱く坂道をやっと登るような有様で、函館・椴法華間を三時間以上かけて運行されていたといわれている。(冬期間や時化(しけ)の時は運休され、普段でも時間は不正確であった)このような運行状況であったが、一般利用客の他、食糧難による買い出しや、復員軍人、その他の乗客が多数おり、バスに乗り切れなかった人々は、道南貨物のトラックに便乗したり、不定期便のトラックの荷物の上に文字通りしがみついて、あるいは小型発動機船に便乗して船酔いに悩まされながら函館・椴法華間を往復していた。
 なお輸送力が極端に落ち込んでいるため昭和二十一年九月三十日、椴法華村は近隣町村と力を合わせ道庁命令航路臼尻線の開航を陳情している。

昭和21年ころの代燃車(別名木炭自動車)

 その後、年と共に次第に交通事情も好転しはじめていたが、下海岸地域では、昭和二十三年になってもまだまだ地域住民の求めるだけの交通機関を確保できないでいた。すなわち昭和二十三年、函館バスは三十人乗りバスを一日二往復(函館・椴法華間片道百七十五円)させていたが、一般乗客の他に買い出しの人々もあり、乗り切れない乗客が多数あったといわれている。
 一方、貨物自動車は、昭和二十三年、道南貨物自動車株式会社によって一日四往復(一台約六千五百円)の運行がなされるようになったが、漁獲物の輸送・食糧品・石炭等の輸送・学校・住宅建設資材の輸送のため、四便では間に合わない状態であり、特に冬期間交通機関が運休する前の貨物輸送は大変混雑を極めていたといわれている。
 その後、戦後の復興期をむかえ、下海岸におけるバス・トラック便は共に昭和二十一・二年ごろに比較して大幅に増強され、かつ車両も代燃車から電気バス(バッテリー使用)やガソリン車、更にはディーゼル車なども走るようになった。
 また昭和二十五年ごろから漁獲物や漁業資材等の輸送のために、椴法華村でもトラックや三輪車(貨物自動車)を所有する事業所や商店が出始め、車を利用してみると非常に便利なことから、次第にオート三輪を中心にして自動車の所有台数が増加していった。

昭和二十三年の交通機関


昭和二十三年トラックによる主要貨物移入調(椴法華村)

 
貨物自動車運送状況 昭和二十七年調査(総合経済調査報告書より)
会  社  名定期定路運行状況
道南貨物自動車株式会社函 館~椴法華一日 二回
日本通運株式会社函館支店     〃  〃
音羽道南貨物自動車株式会社     〃  〃
渡島貨物運輸株式会社     〃  〃


椴法華~函館間貨物発着状況 (村勢要覧その他より作成)


椴法華村車両保有数


椴法華村自動車保有高 ( )は貨物車