『椴法華小学校開校百周年記念誌』より川口玉造のお話を再録。
私は、生まれたのが明治二十六年一月だから、小学校に入学したのは、明治三十二年です。その頃の小学校は、今の役場附近にあり(八幡町の旧役場付近)二つの教室で二人の先生が教えていました。一人の先生が、一年生と二年生を教え、もう一人の先生が三年生と四年生を教えていました。当時は、四年生までしかなく、一教室に三十人位、全部で六十人ぐらいしかいなかったように思います。
赤ん坊を背負い、子守りしながら学校にきていた子ども、子守りや、家の仕事の手伝いで休むことの多かった子どもなどがいて、今のような勉強はできなかった時代です。『赤ん坊つれていかなかったら学校休め!』といわれれば、連れていかなければなりません。赤ん坊を"たな"で机やはしらにしばりつけておいて勉強し、一時間終わったらめんどうを見ながらの勉強でした。
佐々木三綱先生は『四年間の勉強だけでは、学問は身につかない』と言われ、私は、四年生を卒業してからも、毎日二時間づつ午後の勉強に通い、三年間教えてもらいました。正規の授業ではなかったけれど、椴法華小学校補習科の免状をもらっています。多分、佐々木先生が、いろんな方面に手を回してもらえるようにしたのだと思います。
当時の勉強は、いわゆる"読み"書き"そろばん"に"修身"でした。『ハナ・ハチ』という国語の教科書は使ったけれど、習字の先生の手本で、算数も先生が紙に書いたもので勉強しました。佐々木先生の修身は、とても厳しく、机の上に正座させられて教え込まれたものです。今の子どもたちにも修身を厳しく教える必要があると思います。三十六年からはじまった日露戦争では奉天陥落、旅順陥落とそのたびに村中がおまつりのようなさわぎになり、私はいつも祝辞を読まされたものです。その他、浜中(現在の銚子地区の道路と浜にはさまれたあたり)で行われた運動会での"旗とり"など楽しい思い出もあります。
今から思えばさびしい村だったと思います。富浦から元村へ行く道は、今の『かげの浜』へ行く道よりもっとひどい道だったと思います。そういう道を"袖がとおればいい"というような着物で、勉強道具の入った風呂敷づつみを腰に巻いて学校に通ったものです。特に冬は、川にかけられたあゆみ板はつもった雪が凍って、はうようにしてわたったものです。又、浜一帯に咲くハマナスを見ながら通学する楽しい時もありました。あのハマナスの美しさは残しておきたかったですねえ……。