昭和初期椴法華村の中村小吉は、辻田トメより恵山温泉の経営を譲受け、その後一部建物を改造し温泉の経営を始める。
この当時の入浴客は、硫黄採掘人夫、椴法華、根田内両村民、そして恵山に訪れる人々であったと言われ、登山者の数は限られていたようである。
その後、昭和八年七月、函館、椴法華間の道路が開通し、乗合バスが運行されるようになると、恵山は一躍脚光を浴びるようになり恵山温泉もまたおおいに宣伝され、入浴客の数も急に増加していった。
次に昭和八年の主な宣伝について記すことにする。
○昭和八年一月、恵山を札鉄の名所宣伝プランに掲載することに決定。
○四月、「函館毎日新聞」主催、道南五霊場投票で「椴法華恵山賽の河原」第十一位、「恵山権現」第十八位となる。
○七月「下海岸自動車」と「函館日日新聞」の協力により恵山登山のための自動車賃を二割引とする。(椴法華村、函館湯の川間の普通料金は二円二十五銭)
○七、八月函館の新聞社や亀田水産会、その他によって何度も恵山遊覧団や恵山探勝団が組織され登山会が催される。