明治初期下海岸地域の村々では、衣・食・住ともに現在と比較すれば、乏しくまことに貧弱なものであった。
家は屋根に石を置いた掘立小屋か、かや葺の家が大部分であり、窓が小さくガラスが使用されていないため、家内は年中うす暗く、そこへ万年床の藁布団が敷かれていることが多かった。飲料水は川水や湧水・井戸水が使用されていたが、たまに汚水が流れ込み伝染病流行のもとになることもあった。また栄養が充分でないためビタミン不足などによる障害が起きることもあった。
この他にも、保健衛生思想が発達していないため、一本の手拭いを何人もで使用したり、患者と無防備で接触したり、患者の使用物や汚物の処理が充分でなかったりした。その上発病した場合、医療機関がないため適切な処置をとることが出来なく、天然痘・コレラ・腸チフス・悪性感冒などが一度発生するや、近隣地域に伝染し、大流行することが多かった。
この当時は身体に不調があると、現在のようにすぐ医師の診断を受けることなど、到底出来ることではなく、まず富山の薬屋が置いていった売薬を服用するか、腹痛などの時には、自家製の「現(げん)の証拠(しょうこ)」のような漢方薬や「熊の肝」を飲んだり、熱さましとして「馬糞をせんじ黒砂糖をまぜたもの」を飲む、栄養剤として「鯉の生血」を飲むというようなことしか出来なかった。この他に出来ることといえば、あとは祈禱やお祓いをするしか道は残されていなかったのである。
その後明治二十年代になり、ようやく函館・戸井方面の医師のもとへ行く者も出て来たが、多額の費用と時間・人手(海が荒れている時などタンカで陸路を運ぶ)等が必要となるため、ほんの少数の人しか利用できなかった。この当時の医療機関といえば、通称「てんにやくばば」といわれる産婆ぐらいしか、椴法華の村には存在していなかったのである。