戦争は終わったがその後遺症ともいうべき極度の物不足は、医薬品も例外ではなく、各種薬品・注射器・注射針・その他医療機器・ガーゼ・包帯等もほとんど販売されていなく、注射針は何度も使用され、切れ味が悪くなると、研いで使用することもあり、またガーゼや包帯は何度もぼろぼろになるまで洗濯後煮沸消毒して使用され、これらが手に入らない時は、古い浴衣をほどいて使用したこともあるといわれている。急病や怪我で医師の所へ行っても薬品があまりないため、戦時中に買いだめして置いた薬品や、するめや昆布と交換して手に入れた薬品を持参して行った人たちもありその他各家庭では、昔ながらに野草を使用し漢方療法をしたり、栄養不足の時などは、鯉の生き血を飲ませたりしたこともあったと伝えられている。
昭和二十一年村立病院が浜町百七十番地(現在の〓川口商店付近)に設置されており、普通諏訪医院とよばれ、諏訪医師と村で雇った小山産婆が勤務していた。なおこの年以前からの隔離病舎は崩壊してしまい、伝染病が発生した時のことを考えると憂慮に堪えない状態であった。(なお諏訪医師は昭和二十年一月には村医となっているが、椴法華村の空襲に会った七月には一時的に村にいなかったようである。)
その後昭和二十二年から椿田医院(内科医)が旧村立椴法華病院の建物を使用して開業、同じ年吉田医院も岩手県から来村し開業する。この当時経済状況が極端に悪化しているため、治療費は昆布やするめ・米などで支払われることも多く、またどうしても治療費を工面出来ない時は、あるとき払いですませてもらった人もあったということである。