木管簡易水道に関する記録はほとんど残されておらず、村民からの聞書と僅かに残されている資料を基に、明治末期から昭和二十四年ごろまでの間の木管水道について記すことにする。
云い伝えによれば、明治四十三年頃有志の努力により、番屋川上流を水源として木管簡易水道が設置されたが、現在の施設設備に比較して甚だ貧弱なものであり、給水管として竹管が使用されていたため、その給水範囲は富浦・島泊付近の僅か二、三十戸ばかりの家であったといわれている。
その後次第に木管水道の利用希望者が増加してきたが、最初の設備では供給量を充分にまかないきれず、かつ設備も老朽化し、漏水も多くなりつつあるような状態であった。
このため大正時代に入り取水設備の改善と一部給水管を鉄管に取り換え、利用者の要望に応えようとした。しかし需要量を満たしたのは数年間で、利用希望者の増加により給水量が不足し、こんどは取水部分から主な配管を木管に取り換え需要に応じようとした。この時の木管は一本の長さが約一・八メートル位で鉄パイプより内径が太く、不便な点はあったもののなんとか需要をまかなうようになった。
大正十一、二年ごろには、この改善により給水範囲は拡大し、富浦上杉宅から浜町唐戸宅付近まで(山側の高い位置は給水出来ず)となり、更に大正十四年ごろには浜町川口三八宅前まで水が引かれるようになったといわれている。
この木管水道は村の有志により計画建設され、経営管理は簡易水道申合組合に加入した組合員によってなされていた。この組合設立年月日、経営内容についての詳細は、資料不足ではっきりしないが、現在判明している組合長と昭和五年の椴法華水道組合役員について次に記すことにする。
水道組合長
初代 川口勇吉
二代 川口又三郎
三代 福永藤三郎(昭和八年二月より)
昭和五年椴法華水道組合役員
組合長 川口勇吉
監査役 川口又三郎
世話人 石岡房太郎 黒沢仁太郎 川口与之作 沢田松三郎 川島鉄蔵 荒井文吉 田中孫次 中島悦一 宮本鶴蔵 石岡石五郎 舛森乙太郎 平沼藤之吉 丸谷丈太郎 上杉桝太郎
その後時代の経過とともに設備も次第に老朽化し、特に戦後給水量の不足、汚水混入、その他破損等が目立ちはじめ、水質は飲料水として不適当なものになりつつあった。こうした状況の中で昭和二十四年にはやっと約百戸に給水されていたが、その後戦後の混乱による資材難、施設設備の不備、その他の事情により、ほとんど使用に堪えざる状態となったため、新式水道の設置が村民から切望されることになった。