太平洋戦争の激化に伴い、軍需物資の飛躍的増産を必要とした日本の産業は、この要求に答えるためあらゆる分野で物資統制と生産の調整をはじめた。
食糧では米穀が昭和十六年に切符制から通帳制へと改正され、男女・年齢・労働別に配給量が規制されていたが、昭和十八年ごろからは米穀だけでなく豆類・麦・いもなども配給され、昭和二十年には、かぼちゃ、こうりゃん、そば粉、その他まで配給されるようなありさまであった。主食ですらこのようなありさまであり、農産物・水産物・せんい製品・ゴム製品・金属製品・石炭・マッチ・タバコ・その他ほとんどの日用生活物費が統制下(配給制度)に置かれていた。こうした物資不足は配給外売買するいわゆる「闇取引」を横行させ、闇価格が次第につくられるようになっていった。
この当時実際には、この闇取引のお世話にならなかった人は無いといってよい程国民の生活は逼迫しており、一般家庭では衣類を背負って農家を訪ね、物々交換によって食糧を手に入れようとしていた。しかし警察官に発見されると「買い出し」して来た食糧は没収され「非国民」などと叱責され、本当に泣くにも泣けない苦境であった。
またこの当時、椴法華村では、漁船が沖合で難船又は行方不明になった場合、村民は闇の米・するめ・昆布などを船に積み沖合を航行する船まで行き、捜査救助を依頼したといわれており、闇行為に依らなければどうにも生活を維持していけない状況にまで追い込まれていたといわれている。
次に、この当時、椴法華村巡査駐在所が取り扱った出来事を新聞・日記等からタイトルのみを記すことにする。
(昭和十八年から昭和二十年まで)
○漁師と商人が結託、悪質な新手の闇
果實とスルメの闇値交換発覚(新聞)
○罰金申渡、国家総動員法違反(スルメを公定価格より高く売った。新聞)
○国策に背く商店お小言頂載(商品の規定価格を表示していなかった。新聞)
○鯣で不当利得(無検査の鯣を販売した。新聞)
○米一俵五十円、闇取一味捕る。(米と水産物の不正交換、この時の違反は、国家総動員法違反、価格統制令並に水産物配給統制規則及び食糧管理法違反。新聞)
○浜中に青森からの闇米船入り、その後経済警察監視するが闇米船つかまらず。(〓日記より略記)