野火の取締り

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 『明治六年三月函館支庁第六十六号布達、山林仮規則』の第一条によれば、「村々の者共春に至り野火を放ち候より数日鎮火致さず、燃移り諸木の病を生じ、且つ延焼・風順等より人家にも移り、其の害容易ならず候間、以後放火して致すまじく、自然不慮の過より野火に相成候はば最寄りの村々より早々出張消防致す可き事」とある。
 この法令の出される以前、村々では火入れを行って畑耕作の準備をしたり、馬の牧草を得るための草刈場を作ったりしていたが、火災の危険が常にともない、また実害もかなりあったものであろう。この法令により一切の火入れを禁じ、更に若しも不慮の事故により失火した場合は、近くの村々より直ちに現場に駈け付け消火活動をするように命じていることがわかる。多分このころは専門の消防夫が置かれていず、村々が協力し合って「駈付人足」の制(消火行動をとれる村民が消防人足となる)をとっていたものと思われる。
 このように野火を放つこと(火入れ)は禁止されていたのであるが、火入れは従来からの農業習慣であり、農業技術・農具の発達していなかった当時としてはこれに代わる方法はなく、法令通り実施されていなかった。
 このためその後出された「明治七年の内務省布達」は一部火入れを認める方向に改正され、これを受けた「明治七年三月の野火取締規則」は部分的に火入れを認める方向に改正されていた。こうした状況の中で明治八年四月、椴法華村及び他村より函館支庁に提出された火入れに関する書面と函館支庁からの回答を次に記すことにする。
 
    八月分 民事課往復 (北海道蔵)
                椴法花
     願書
  當村方之儀馬飼料之為メ於水無野、矢尻濱野弐ケ處秣苅秣来候処右野山之儀不焼立候而は秣生方不宜至と飼料ニ差支申候間来月八日ゟ(ヨリ)拾弐日之間風合見量り焼立候様仕度尤焼立候節ハ村中罷出火の元厳重ニ取締可仕候間此段御差許奉願上候也。
   明治八年第四月廿八日
            茅部郡椴法花
             村用掛 佐々木弥三郎印
  開拓使三等出仕杉浦誠殿
    割印                割印
 
 このように椴法華村では水無野及び矢尻浜野において、馬の牧草を得るため風の様子を見ながら火入れをすることを許可してくれるよう、開拓使函館支庁杉浦誠に申し出たのであるが、開拓使函館支庁は次のように回答している。
 
    八月分 民事課往復
  (朱書)第四号
   戸井村詰
    渡邊光友殿        民事課印(函館支廳民事課)     戸井村外三ケ村秣場焼拂願書十二号ヲ以御差廻ニ候得共右ハ客歳中當使第三十号御達以来不及願候間願書其儘致返戻候尤取締注意之廉等御参考之為右御達写及御廻候也。
    (朱書)八年五月三日
  第三十六号
  茅野或者秣場〓(ナド)江 肥饒之為枯草焼捨候義ニ付昨春中布達致置候処本年内務省甲第三号布達之趣も有之ニ付而は更ニ野火取締別紙之通改定候条正副戸長町村用掛〓(ナド)ニ於而厚ク注意致シ心得違無之様人民江モ説諭可致此段相達候也。
    七年三月卅日 開拓中判官 杉浦誠
  (朱)別紙
      野火取締規則
  一、山林江放火決而禁止之事。
  一、秣場幷茅野トモ肥饒ノ為放火候節ハ豫メ日限ヲ定五日前當支廳江可届出事。
  一、放火候節ハ村中申合適宜人夫差出シ延焼之豫防可致事。
  一、無届ニテ放火一切禁止之事。
  一、山村幷秣場トモ(トモ)無故延焼候節ハ副戸長ニ於而顚末取調其都度屹度可届出事。
  右之通相定候事
    七年第三月三十日
 
 前の資料を簡単に説明すると次のようなことである。
 戸井村外三ケ村(含椴法華)より出された火入れの願書を函館支庁戸井分署詰の渡邊光友は函館支庁民事課へ送付したが、民事課は火入れの願書は法令の改正により、この願書提出しなくともよいことになったので其のまま返却する。更に参考として野火取締規則を同封するから正副戸長村用掛等によく注意し村民へもよく説諭するようにと戸井分署の渡邊光友に命じている。
 (野火取締規則の内容は省略)