椴法華警防団

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 椴法華警防団関係の書類は終戦の時にほとんど焼却されてしまい、正確な資料が乏しくはっきりしない部分があるが、不足の部分は新聞記事や村民の話などにより補い当時を知る手がかりとしたい。
 昭和十四年四月一日勅令を以て全国の消防団は警防団と改組され、我が椴法華村においても消防組は警防団と改められ、消防組員は警防団員とよばれるようになった。
 この時から警防団員は従来の火災消火・海難救助に加えて、防空監視そして海上監視の業務をも行うようになり、更に警察に協力し戦時下の治安維持に当たることになったのである。
 なかでも新しい仕事である「防空訓練」は従来の消防団員の知識・技能訓練になかったものであるため、警防団員に対して特にこの面の訓練が定められ重要訓練として実施されていた。その内容は、防空監視・航空機の識別・情報の確認と伝達・燈火管制・警報の伝達・空襲に対する消火方法等の基礎訓練であった。これらの訓練を受けた警防団員は各部落会に配置され、部落会毎に又は村全体で開催される警防講習会の講師として、防火演習・燈火管制・空襲警報・防空壕造り・非常保健処置等の指導監督を行った。しかしこの内容で実用的であったのは、包帯の巻き方などを教えた救急処置ぐらいで、そのほかの焼夷弾攻撃を受けた時バケツリレーや繩で作った「火はたき」で消火せよとか、又は昭和十九年の終り頃になってからの竹槍による突撃で敵を倒す訓練等は、現在から考えると「こっけい」とも思われるようなことであるが、当時は真剣に行われていた。
 その後、戦争の激化に伴い、団員は次々と応召されるような状況となったのであるが、こうした中で燈火管制や防空演習・救助訓練が繰り返えされ、次第に年齢の若い男子や女子までも警防団の補助員的な役割につかせるような状況になっていった。
 昭和十八年頃から米潜水艦が当村沖へ出現するようになり、次第に空海の戦争が目前で行われるようになると、警防団の仕事も単なる演習ではなくなり、火災消火・遭難船救助・防空警備・その他の仕事を実際に小人数になった団員及び在郷軍人団・青年団等の一致協力で行うようになっていった。
 なかでも二度にわたる潜水艦攻撃による沈没船の救助・負傷者に対する応急手当・死亡者への配慮・昭和二十年七月十五日米軍機の攻撃による小学校火災に対する消火活動・燈台攻撃に対する避難援助・その他この日の負傷者及び死亡者への救急活動・戦災後の燈台及び役場への援助出動等文字どおり命がけで警防団と村民は一体となって活動していた。