防空監視哨

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 椴法華村では昭和十七年、警防団防空部の一部として、監視哨が現在の恵山岬燈台付近に設置され、交替で空及び海の監視が行われていた。ここの設備は関係者の話によれば、望遠鏡・双眼鏡・電話等があるだけで所員も監視所長のみが正式警防団員で、あとは青年学校の生徒であり意欲はすばらしかったが、付近にあった陸軍・海軍の監視所に比較すれば甚だおそまつなものであったといわれている。
 所員は監視のかたわら監視の基礎訓練・立哨・通信・外国機及び艦船の識別・その他を学習し、炊事等を当番制で担当し不充分な装備と不便な地にあって、日夜監視に学習に非常に意欲的であった。このことは内務省の認めるところとなり、昭和十七年、優秀監視哨として内務大臣より全国表彰を受けることになった。次に当時の新聞報道より表彰当時の状況を記すことにする。
 
   昭和十七年十一月  北海道新聞
    北の防人"殊勲甲"
          監視哨に輝く内相賞
   北の護りの最前線に立ち日夜大空を睨んで索敵の眼を光らせている監視哨員の労苦は涙ぐましいものがあるが今回北方の眼となり耳となって国土防衛に活躍してゐる道内○主要監視哨が"その行動は迅速且つ確實にして監視哨の模範である"と内務大臣より輝く表彰をうけることゝなったがこのうちの一ヶ所はわが渡島○○監視哨が加はり燐(サン)たる榮譽に浴することゝなり哨員は感激し凛然たる監視の陣容を一層強固にし"北邊の防人"としこの任務に挺身してゐるが○○監視哨は本年○月に開設されたもので○○麓に位し人家より遠く離れた寒地の酷しい個所であるが哨員○○名の士気は極めて旺盛にして哨長川島吉太郎氏指揮監督の下、一致結束、風雨に身を曝して真摯(しんし)敢闘を續け、空は勿論、海上にまで監視の眼を見張り間隙もなき奮闘をしている。殊に地形と気象との不便を克服し無聊と戦ひ、困苦缺乏に耐奮って難局に赴き任務を遂行してゐることが今度の榮ある表彰となったものである。
 
   昭和十七年十二月  北海道新聞
    寝る間も忘れぬ爆音
    現地報告 晴れの内務大臣賞に輝く道南の○○監視哨は部落から○キロ、馬も通はぬ嶮岨な山道を登りつめ、眼下はるかに怒涛逆まく海を望む丘にポツンとそゝり建ってゐる小屋だった。屋上の立哨臺には○名の若い哨員が寒風にかじかんだ手に双眼鏡をしっかりと握りしめてヂーッとはてしない海と灰色の空をにらんでゐる。(中略)
   哨長川島吉太郎さんのほか哨員の殆んどが青年学校の生徒でまた"水産戰士"でもある。
   日課は集合點呼・宮城遙拝・誓詞朗讀・交替・晝食・観測・夕食・学課・消燈・○○観測となってゐてその間○名が一組となり交替で絶えず立哨に通信に當ってゐるほか炊事當番があるが朝出動の際は○粁の悪路を薪や食糧品を背負ひ汗を流して瞼しい山道を登らねばならない。(中略)
  『一番つらいのは水汲だ手桶一杯水を入れ二人で擔いで胸を衝くような急坂を上らねばならないことです。吹雪の傳令の時なども本當に泣きたくなります』発育盛りの青少年にとって、睡魔も苦痛の一つだった。
  『僅かの休養時間には死んだようにねむってしまふが、時々大聲で報告"船舶一隻"とか"爆音"とか寝言をいふ者があって大笑ひします。慣れないうちは、沖合を通る「発動機船」の音を爆音に聴取したり「カモメ」が敵機に見えたりしたが今では絶對違ふことがなくなった。こうした労苦のうちにも休養のひとゝきは朗かに雑談に花をさかせてゐます』
   哨員達の唯一の慰めは時々登ってくる女子青年團員や婦人會員の慰問で、布團の破れをつくろってくれたり配給物の運搬を手傳ふやさしい心遣ひだった。