かつて北海道沿岸は荒天が多く海難の発生しやすい所と言われ、中でも恵山岬付近は、潮流が早く、コンパスもくるいやすく危険地帯と言われてきた。しかし近年漁船の性能の向上、港湾の整備、あるいは的確な気象情報のキャッチが可能になったこと、無謀操業の減少などにより以前に比べ海難は極度に減少してきている。
また海上保安部の巡視船も大型、高速化され、中にはヘリコプター搭載型も配備されるなどその機動力も年々充実されてきている。
このような中で、函館、室蘭海上保安部もまた海難防止及び救助体制の充実がなされ、従来函館海上保安部椴法華分室が担当していた地域まで、函館、室蘭の海上保安部でカバーすることが可能となった。このため昭和二十六年の開所以来三十年以上にわたって渡島太平洋岸の海難防止と救助活動に努めてきた椴法華分室は、惜しまれつつ昭和五十八年三月三十一日ついに閉所式をむかえることになった。
「函館海上保安部沿革史」は椴法華分室の閉所式について次のように記している。(要約)
椴法華分室の閉所式に思う。
第十七代函館海上保安部長阿部秀明
…また部内的にも函館海上保安部にとっても忘れられない出来事がありました。即ち、椴法華分室の廃止、通信所の閉局、一管本部工作所の同居等です。
中でも椴法華分室の廃止については、同分室が地元市町村の方々の御尽力と地元選出国会議員、道会議員、それも党派を超えてのお力添えを得て誕生したいきさつがあるだけに、廃止にあたっては、三顧の礼ならぬ、両三度に亘って、これらの方々の事務所やら自宅やらを訪ねて了解を得て回ったことです。それも予算とのからみの関係から十一月から一月にかけてでした。吹雪の中を当時の坪田管理課長、前田管理係長と三人で途中暖い昼食で暖をとりながら回ったことが強く印象に残っています。
そして昭和五十八年三月三十一日椴法華村長、漁協組合長、消防団長等の立会いのもとで庁旗降下、ここに三十一年半におよぶ分室の歴史の幕引きをさせて貰った訳で、開設の華々しさにひきかえいささか感傷を禁じ得なかった記憶があります。