大阪西田弥平治所有明徳丸、千六百石積、乗組員十七人は、安政五年(一八五八)越後国新潟へ城米(城中に貯蓄するための米)を積み取るため六月十九日、浦賀港を出帆したが同月二十二日恵山沖で大時化(しけ)にあい全損海難となる。
当時の御觸書によればこのことについて、乗組員や漂流物が海岸に流れついたならば、直に手当を加え、漂流物の適切な処置をはかり沖の口へ届け出るように命じている。
安政五年御用留(函館図書館蔵)
午正月造之
御觸書
摂州御影 西田弥平治手船 明徳丸千六百石積、沖船頭但報告拾七人乗
右之船越後新潟おゐて御城米可積請處去月廿二日、エサン沖おゐて皆無及破船候条乘組之者共は勿論船具其外とも海岸江流寄候ハゝ急速沖之口御番所江可訴出若隠し置後日於相顯は可為曲事条可觸知もの也、
沖口御番所 箱館町ゟ
湯ノ川村夫ゟ
山越内村迠
右同断 役人