昭和三五年八月一二日、町議会終了後、議員協議会を開き、理事者は目前のこれらの実情を卒直に述べて機構改定の意向を示唆した。
これが地域の住民に「一方的に分庁を廃止する」と伝わり、大きな波紋を投げ、同月二四日、臼尻地区代表連名で「分庁存続要望書」が町長、町議会に提出された。合併後の分庁廃止反対の声の始まりである。
三六年二月一七日、東海豊崎地区で住民大会が開かれ、未合併の鹿部村に対する事後のはたらきかけに対する意見もででてきた。
そして、分庁は三村合併の足がかりとして、あくまでも三村合併実現まで存置する運動をすすめるため、分庁存置期成会を結成した。
委員一一名を選出して東海豊崎地区一、一七九名の住民が連署した陳情書が提出された。
これに対し、理事者は出張所をおいてその目的を可能にできる旨強調したが、住民を説得するところまで至らず平行線をたどった。
町議会の協議が進むまえに、役場と住民が感情的なしこりをのこすことをおそれ、三六年一二月一九日、町長は臨時議会において経過を説明して議案を提出した。
1 役場位置を定める条例の全部を改正
2 課設置条例の一部改正
3 役場出張所設置条例
この提案に議会は紛糾して審議の続行ができなくなり、これを特別委員会に付託した。
しかし、数度の特別委員会においても容易に意見の一致をみることはできなかった。委員会は次のような要望を付して町長に原案の撤回を要望した。
分庁が制度上変則的なものであって、早急解消されるべきは当然であるが、全町民の了解ということは無理にせよ、納得できないままの者が相当存在することが推測される現況からして、これらの者に対し出来得る限りの説得を続け、円満な姿で実施することが町行政執行上好ましいことである。
従って適当な機関を設けるなどして積極的な努力を行い、早期にその実をあげ、しかる後に再度提案することとし、さきに提案の三議決は撤回するよう要望する。
期成会は、積極的な運動を展開した。議会に対する要望、陳情と町議会議員へのはたらきかけをすすめ、三七年二月八日には、渡島支庁長に面会を求めて分庁存続を懇請した。
さらに期成会は、代表を道庁に送り、地方課長に面会して同趣旨を懇請した。このときの地方課長の談話は、
分庁が行政上極めて変則的なものであり、道としても出来るだけ速かに解消されることを期待している。
合併の際の裁定において当分の間と言ったのは、合併計画の最終的な見通しが得られるまでの間において、地域住民の大部分の了解が得られるまでの間を意味したものであるが、それにしても、そう長い期間を予定したものではない。すでに合併後三年近くを経過した現在、なお変則的な分庁を置いていることは好ましいこととは思われない。
なお、分庁を廃止した場合にも旧臼尻村地区の振興のためには、道としても格段の援助をする予定であるから、町内部において、速かに円満な解決がされることを期待するものである。
この地方課長談話は、地元の感情を和らげることに大きな効果をもたらした。しかしその後、分庁存廃論や役場新庁舎位置論の賛否などたびたび登場してその解釈論議のもととなった。
この経過に苦慮しながら努力をつづけたが、理事者もこれ以上の町民の紛糾と不信の深まらないようにと、昭和三七年六月三〇日、臨時議会で「庁舎位置の改正、課の設置、出張所設置」案の提出三件を正式に撤回した。
この後、特別委員会の報告、要望にもとづき、「適当な機関を設けて積極的に努力」する方向で特別委員のなかから五名の委員を選出して、「役場位置機構改定協議会」を設置した。
数度の会議が開催されたが、問題の進展はむしろ議会も町民も静観的な方向をたどった。
この問題は、後あとまで続いて再燃し、その度に同じ論議が展開された。分庁問題を解決するためには、なお歳月を経ることになる。
南茅部町役場 分庁